ライクリー・ラッズ!
ライクリー・ラッズ!
夜も更けて久しい山の手の住宅街は、夜半ともなると閑散としてその静寂を守っている。モデルルームと建売住宅がずらりと並ぶその坂道を上ってずっと奥。やがて見えてくるのは、古きよき時代の日本の風情のなごりを残した石垣で隔てられた木造建て平屋だった。その屋根を守る瓦が、月夜に浮かんで波のように煌々と光り輝いている。その通りの一角に、かの竹青荘はあった。いかにも寂れた外観をしたその建物は、マンションやアパートといったしゃれた横文字とは縁遠い装いで、いまにも傾いて崩壊しそうなまま、どうにかその様式を持ち堪えていた。
――カンカンカンカン!その辺り一帯に、それは突如として鳴り響いた。小屋の中で早々と寝床についていた番犬は、何事かと飛び起きてチェーンいっぱいにぐるぐると徘徊し、辺りをキョロキョロと窺った。それぞれの部屋で思い思いに過ごしていた住人たちは召喚を命じられ、やれやれといった風体でぞろぞろと居間に集い始める。台所の流しの前では、その音の原因である男がフライパンとおたまを手に待ち構えていた。そうして頭数が揃ったことを確認した男は、それと分かる仕草でおたまをテーブルへ向けて指した。それはあからさまな命令だったが、それに口を挟むどころか、全員が口を噤んでいた。彼が寮長であることを抜きにしても、台所はハイジの領域であり、住人の胃袋を掴んでいるのもハイジで、また、それのみならず毎日の献立や体調管理しているのもハイジなのだ。安い賃金で住まわせてもらっている立場の彼らは首に縄を掛けられているも同然で、ここへ至る経過がどんないきさつで、そしてそれがどんな詐欺的なやり方であったにしろ、今現在その手綱を束ねいてしっかりと掌握しているハイジには誰も逆らえたことなどなかったのだ。
住人がテーブルへきちんと着席したのを合図に、彼は満足げに相槌をうつと、やがて口火を切る。
「王子が飯を食べなくなった」
ハイジはそう、かすかながらも悲壮感を漂わせて言った。王子が?と声もなくそれぞれが視線を交え通わせ、その視線を同時に向けてくる住人たちに、ハイジはいたく深刻な面持ちでひとつ頷く。
「なにを食べても味がしないらしい」
「……味覚障害か?」
医者の息子であるユキがいぶかしげな声を挟んだ。ハイジはそれを受けた上で、また言う。
「匂いも感じないと」
「それは……」
ユキがまた言いかけて、
「それってなんかのビョーキ?」
「見るからに弱っちいもんなあ、王子さんって!」
双子がそれを遮り、騒ぎ立てる。即座にその頭をパシパシン!と調子のよいリズムで叩かれ、同時に振り仰ぐ。二人の恨みがましい視線の先で、キングが慌てたように人差し指を口元で押さえていた。
「バカ、てめーら!この荘の壁はコンドームもびっくりな極薄さなんだぞ!しかもアイツの耳は地獄耳だ、その内あのバカでかい本棚の下敷きにされても知らねーぞ!」
「キングの声のがよっぽどデカイよ……」
俯く神童が、申し訳程度の強さでお咎めを入れた。その隣でムサがそれにうんうん、と頷いている。その一様の光景を見ていた走が、やおら口を開いた。
「それで……王子さんがそうなった原因は?」
うむ。と頷いたハイジに視線が集まる。
「ユキ」
「は?」
頬杖をついていたユキが間抜けな声をあげた。ハイジはそれに作為的な笑みを向けて言った。どうぞ、と。
「なぁんだよハイジさん期待外れー!」
「うるさい、ジョータ」
「俺はジョージ!」
憤慨する双子の向かいで、がっくりと頭を垂れていたユキが眉間を押さえながら振り仰ぐ。
「……あー。多分、ストレスが原因と考えるのが妥当だろうな。あと、最近の若者はアエン不足でな、味覚障害持ちは多いんだ。ごまとか牡蛎とか、あとチーズなんかを摂取するといい」
さすが病院の跡取り息子!双子が囃し立てるのを余所に、ハイジはしっかりとメモを取る。
「王子のヤツ偏食だからなあ……」
キングが思い耽るように言った。
「構わん。無理矢理にでも食わす」
「……ハイジサン、ソレは誰ガタメ?」
忽然として腕を組むハイジへ、ムサが片言のコトバで問い掛ける。それは子供のように純粋無垢なようでいて、あまりにも鋭い一言だったので、ハイジはひそかに瞠目し、毅然として言った。
「もちろん、王子の身体の為だよ」
それはどうかな。
誰もが思ったが、やはり誰ひとりして声をあげる者は居なかった。
「つまり王子の体調が良くなれば、結果として俺にとってもオーライというわけ。まさに一石二鳥だ。なんだよ、変な目で見るなよ。いっとくけど、俺がこんな風に何事にも余計な無駄なくメリットを受けるためにどうすればいいかって考えるようになったのは、俺が家計簿と睨めっこしつつスーパーの争奪戦に参加し、その手のスペシャリスト・主婦の方々達から知恵と恩恵を授かってきた苦労と汗の賜物なんだぞ」
それについてはノーコメントを貫き通す住人に、ハイジの淡々としたマシンガントークに火がついた。いかに自分が王子の偏食ぶりに手を焼かされてきたかという熱弁を繰り広げる。神童はさらに俯いて、聞いてはいないと分かりつつも言わずにはいられなかった。
「……ハイジさん、王子さんに聞こえちゃいます」
ああ、聞こえてるよ。豆電球の小さなオレンジ色の明かりだけがぽっかりと浮かぶ部屋の中。悪態ついでにふてくされたように唇をとがらせる王子は布団を握り締めて、そっと頭まで被った。
「あれ、そういやニコちゃん先輩は?」
気を取り直させるようなキングの明るい声が聞こえてきた。王子は視線をあげる。ニコちゃんは自分の名前があがったことに、おや?と天井を見つめた。ついで笑みを向けられて、王子はすぐに視線をはぐらかす。
「皆さ、お前のこと心配してんだよ」
ぽんぽんと頭を撫でられて、その指先から鼻腔を擽る匂いに、王子はぶすれたように伏せる。
「ニコちゃん先輩、またタバコ吸ったでしょ」
「へへっ、バレたか」
「ハイジさんにチクりますよ」
「そりゃ勘弁」
両手をあげるニコちゃんに、だったら。と王子は言葉を繋げる。
「俺の飯、食ってくださいよ」
指差す先に、お盆に乗せられたラップで蓋をされた今晩の夕食。
「それも勘弁」
「チクってやる……」
「うるせい、こいつは俺の問題なんだよ。だからハイジも見て見ぬフリしてんだ。そして、これはお前の問題だ。てめえでカタ付けなきゃな」
「じゃあ俺のことも見て見ぬフリしてくださいよ。……放っておいてくれよ」
王子は完全に突っ伏した。
ふうん。と重いため息を吐いて、ニコちゃんは苦笑う。タバコの匂いのするそれは、王子の癇癪玉をざわざわと撫でるように触発した。ぱん、と渇いた音が四散する。膝を叩いたニコちゃんが立ち上がった。
「そうするか。でもな、ずっとそうしてられる程人生甘くもねぇぞ」
そんな台詞を置いて扉を閉めて出て行く。一人残された王子はギリギリと唇を噛んで、もやもやする胸の中のものを根こそぎ放り捨てたくてTシャツの胸元のを掴み締めた。どこまでも飛び出して逃げ出したい。そんな感情を抱いたし、けれどどこへも行けない、そんな虚無感もあった。王子はただ途方に暮れて、布団の隙間から腕を伸ばし、床に散乱した漫画のひとつを取り寄せた。
作品名:ライクリー・ラッズ! 作家名:saki105