日々是学習也
「俺がいいんじゃなくて、俺以外が馬鹿なんだよ」
『謙遜』なんて単語を、人間性という名の辞書に持ち合わせていない折原臨也は、まったくの事実としてそう言った。彼は人を愛していたが、それと能力を認めるのとはまったく別の問題だ。むしろ下位の存在だからこそ、博愛の対象になるのかもしれない。
例えばそれは、子どもが夏休みの自由研究に蟻を観察するのに似ている。薄いプラスチックの箱に断面図を晒した蟻の巣は、毎日子どもの好奇心の眼に晒されて、最終的にはひっくり返って捨てられる。時に蟻が人間で子どもが神だとしたら、蟻である筈の臨也は、プラスチックの箱の上から同じ蟻達を眺めいるのだろうと思っている。
新羅がそんな考えの一端を披露すると、臨也は笑った。彼にしてはかなり、相手に対して好意的な笑い方だった。
「そのとき君はどこにいるのかな、新羅?」
「僕も蟻さ。美しい太陽に焦がれながらも、地を這うしかない哀れな生物だよ」
「良く言うよ」
新羅の言葉には言葉以上の意味がない。
新羅は臨也の中学以来の(数少ない)友人の一人だ。臨也にとって『友人』とは、その有能さを認めた人間、という定義である。そう言う意味では、セルティ・ストゥルルソンも矢霧波江も友人なのかもしれず、平和島静雄は絶対に友人ではなかった。
有能、とかそういうことを考える以前に、臨也は平和島静雄の圧倒的な力からどう逃げるかに集中しなければならなかったためである。
*
風を切る、宙を舞う、アスファルトを抉って二三回転したかたと思うと加えられた力に負けてべこりとへこむ。これが自販機とかポスト以外のものだったら別に驚きはしないんだけどな、と臨也はごく冷静に思った。彼が驚いていないのは、その光景が学生時代からおなじみのものになってしまっているからだった。人間、見慣れたものに驚くことは難しい。
はぁ、と息を吐いた臨也は、次の瞬間に猛然と走り出した。今の一撃を避けられたのはまったくの偶然だったので、次はないと分かっていたのだ。案の定、臨也が前方の障害物(もとは自販機だった何か)を身軽に乗り越えたとき、それまで彼のいた場所には二つ目の自販機がめり込んでいた。
新羅に用があったから、ちょっと池袋に寄っただけでこれだ。臨也がどんなにこそこそしても自販機は宙を舞うし、平和島静雄は折原臨也を見つけてしまう。
「いーざーやーぁ、またてめぇーかぁ!」
また、と言われても今日は何かした記憶がない。本当に新羅に会いに来ただけなのだ。少ないとは言いがたい金銭と引き換えに表ではやりとりの出来ないブツを受け取ったりはしたけれど、それを使う予定はもう少し先だった。
自販機が当たらないと知ると(当たったらさすがに死ぬと思うんだよね)、静雄はより直接的な手段を選択した。いつもの追いかけっこの始まりである。
この追いかけっこというのがなかなか骨が折れる。臨也は『技としての生身による移動手段』を習得しているから、いわば逃げのプロだ。この池袋ならば裏道の一本までも頭に叩き込んであり、さらには今日どこで何が起こるかということも把握している。臨也はただ逃げるのではなく、道筋から時間、そこで起きる出来事まで全てを計算して逃げている……と言うのに。
そんな理屈などもとのもしない静雄は、数回に一回は、臨也に追いつく。様々な方法でもって。
今日はどこからか引っこ抜いた標識を空高く投げると、走る臨也の目の前、進行方向30センチのところに突き刺して見せた。槍投げ選手も真っ青の正確さだ。
「まあ待てよ臨也くんよぉ。ちょっと旧交暖めてけや」
「シズちゃんと暖める旧交なんてあったかな……」
「あるだろ。ここで潔く死ぬか、俺に潔く殺されるかだ」
一旦足を止めてしまえば残念ながら、静雄から逃げ切ることは難しい。背後に近づく物騒な気配に、臨也はゆっくりと身体を反転させた。指先が無意識に、袖口のナイフに這う。
平和島静雄は──事実、臨也に彼以外のことを考える余裕を無くさせる男は、ごく自然な形でそこにいた。脱色された金髪、良く見ると整った顔立ちを隠すブランドもののサングラス。白いシャツに黒いスラックス、同色のベストに蝶ネクタイ、いわゆるバーテン服。薄い唇には今し方新しく煙草を銜え、ライターを持っていた手をスラックスのポケットに突っ込んでいる。
これではまるで自分が追い詰められているようだ。いささか機嫌を損ねた臨也は、彼の支配する『言葉』でこそ状況を逆転させようと、シズちゃんってさぁ、と敢えて明るい声を出した。
「ほんと俺を見つけるの上手いよね。臭いか何か?」
「まあ確かに、てめぇが来ると街中がくせぇ」
「いや俺体臭薄いよ? エチケットだしね。っていうか臭いで分かるとか、シズちゃんひょっとして俺のこと大好きなんじゃないの?」
「そうかもな」
ふー、と静雄は煙を吐き出した。当然、ふざけるなとか何とか言う怒号と共に拳が飛んでくるものとばかり思っていた臨也は、少々予測の外に転がったその返答に──非常に情けないことに──反応が遅れた。
「……えぇー冗談でしょシズちゃん、」
「まあ、冗談だ」
そして静雄はどこまでも平静な顔で、煙草を捨てると腕を振りかぶったのだった。
「だから大人しく死んでくれ、俺の大好きな臨也君」
*
「ガキの頃夏休みの自由研究で蟻の巣の観察したことがあってさ」
『蟻の巣の観察? どうやってやるんだ?』
「ああ、知らねぇか。こういう透明なプラスチックの薄い箱にさ、土詰めて蟻を放すんだ。そうすっと蟻が作った巣が断面図みたいに外から見える仕組みでさ」
夜、池袋の片隅で、金髪にバーテン服の男は、漆黒のバイクに跨る友人に身振り手振りで理科の実験教材の説明をした。黄色いヘルメットを被ったセルティ・ストゥルルソンは、静雄の説明ひとつひとつに頷いて、理解している旨を示す。
「まあ観察自体は十日くらいで飽きたんだが、その後が困るんだよな、あれ。蟻はしっかり巣作ってやがるし、でも俺は飽きたし。で、悩んでたんだけど、うっかりひっくり返しちまって。玄関の石畳の上に土ばら捲いちまってさ。当然蟻の巣は壊れた」
これまで静雄が壊してきた数多くのもの、その中のひとつの話なのだろうか。声を持たないセルティは、僅かに首を傾げて静雄の話の続きを待った。
静雄吐き出した煙草の煙が、星の見えない空にたゆたって消える。
「でも蟻はさ、土から這いだしてきてどっか行っちまうんだよ。きれいに一匹もいなくなった」
『そうか。強かだな』
「まーな。俺の悩みなんか知ったこっちゃなかったんだろーよ。で、幽が手伝ってくれて土片付けて、終わりだ」
話終えて満足したのか、静雄は短くなった煙草を、携帯灰皿に放り込んだ。セルティは嫌煙家ではないが、彼女の前で静雄は、嗜好品として以外の煙草を必要とはしない。
「そういや臨也のやつが来てたな。取り逃がしたけど」
『そのわりに機嫌は良さそうだ』
「いや何か勝った気がしてさ」
よく分かんねぇけど、と静雄は珍しく満面の笑みを浮かべた。