木の実セレナード
異様な笑い声が響く。茶髪を伸ばして、優しげな顔をしている男。この一瞬が楽しくて堪らないというように笑顔を絶やさない男は、何時間もピアノを弾き続けている。同じ曲を何度も何度も。彼をこのテンションにしたのは俺だ。直接の原因ではないにせよ、きっかけは作った。この手でやってしまった。
「どれだけ弾くんだ白峰。疲れるだろう」
「何時間だって平気! 面白いことが溢れるから、ずっとこのまま!!」
そしてその乱弾を聴いているのも俺だけ。古びた建物の豪華なリビングに、二人しかいない。俺は、この部屋に他の人物がいると大いに困る事情を抱えている。
「面白いこと? 馬鹿笑いしながら弾いてるわりに悲しげな曲だな」
「そうかな。じゃあ、ちょっと音増やそうか?」
あっという間にアレンジが変わり、装飾品がごっそりとつく。その分重みがついて、ゆったりとしたテンポになる。楽器を目一杯使った流れるような音が並べられていく。
「音を多くすれば悲しい曲じゃなくなるのかよ」
「ハハハハ。寂しくはなくなるでしょ? この曲の日本語詞はねー、なんだっけ。悲しい言葉が付いてたよ。少年がパパと一緒に拾った木の実を握り締めて、秋の草原を一人走っていくの」
世の中に母を想う曲は数あれど、父親のことを歌う曲は割合にめずらしい。……父親か。
「童謡なのか」
「ポップスのシンガーがカバーしたこともあったかな。ええっと、元の曲は、フランスで作られたオペラ・コミックの中のセレナーデ。んーと、婚約者同士が誤解したことを男が弁解するの。一晩中愛を歌う曲だよ。好きなんだ。綺麗なメロディーで、心洗われるみたい、っていうの? 癒しの曲だと思うな、俺は」
たくさんの言葉を一つ一つ拾い上げて俺に投げつけながら、長い指は滑らかに正確を期して鍵盤を滑っていく。
「癒しの要素が一つも見つからないんだが」
「優しくなかった? そうだな、曲から受け取るメッセージに、正解なんてないよ。いくら伝える側が何を考えてたのか推測しても。いくら表現者がテクニックを盛り込んでも。伝わった結果がすべてじゃない? 愛を伝えるメロディと、悲壮感あふれる曲と、ヒーリングミュージックなんて、個人の感情で簡単に入れ替わっちゃうんだよねえ」
曲が終わり、しばし音が止む。
「それに木の実を持ってれば、迷うことはないの。希望の光だよ」
「そこまで読み取れねえよ。お前は表現者として、視聴者を突き放しすぎじゃないか?」
心なしか明るいリズムと音で演奏が再開された。
「ふふっ。じゃあ辻村さんは何かを伝えようとしたの?」
……なんでそうなる。今はお前の話をしてただろう。お前に説教をされたくもない。
「俺は表現なんてしようとしてない」
「俺に話しかけて来たけど? 人とのつながりなんか全部表現だよ。君は相手を受け入れているようには、見えない」
『説得』はなかなか終わりそうにない。タバコに火をつけて銜える。
「そんなに俺は人を拒否してるように見えるか?」
「見えるよ。自分のこと、全然語ろうとしないじゃない」
仮にも俺たちは、HN当てゲームをしてなかったか?
「正体がバレたら不利になるだろ」
「情報を交換する気がないのなら、少なくとも君はここにいるべきじゃない。別の部屋に行ったら? 俺のHNもわからないままだろうけど。アハハハハ!」
ピアノとは別方向に紫煙を吐き出す。完敗だ。正直な話言いたくない言葉をしぶしぶ口にする。
「じゃ、手始めに、野暮は承知でお前の表現とやらも説明してくれないか? 高尚な芸術はわからねえ」
すっと、優男の目が引かれた。
「ピアノってね、とてもセクシーな楽器なんだよ」
「は?」
突然の展開に、タバコを取り落としそうになる。その変化に満足したのか、男の顔が満面の笑みに戻る。
「ふふふ。女の子に例えると、触れないけど応えてくれるコ、かな。
グランドピアノだと、ピアノ線が丸見えでしょ。だけど触れさせてもらえるのはハンマーが弦を叩いて音を出す一瞬だけ。それを身体の中でめいいっぱい反響させてくれる。見た目はアバズレなのに、プラトニックな関係しか持たせてくれない。表現力が豊かで、学校や身近にいるけど、オーケストラには大抵入れてもらえない。そんなコに慰められるんだよ。燃えるじゃない!」
「完全に同意はし難いが大体わかった」
「そんな楽器を通してしかできないけど、俺は愛したいの! 光になりたいの! 癒されたいし癒したいの! 教えるだけじゃなくてさ、その人の舞台に立ちたいの! 取るに足らない人間だったなんて知りたくなかった!」
この細身から溢れ出る熱狂は何だろう。
「せめて、もっとわかりやすくしてくれ」
興が削がれたのか、ほんの少しだけ男の顔が曇る。
「分かりやすいから価値がある、ってものでもないでしょ。……幽霊棟のメガネみたいに、方法を間違ったら壊れちゃうんだ」
「幽霊棟?」
「夢の話だよ。目覚めてからも、トリップしても、なぜか頭の中から離れない」
ピアノの音が、一層大きく鳴り響く。
「アハハハハハ! 愛を歌っていたんだよ俺は!! わかりにくくてもこれが俺なんだよねえ。愛を伝えたかった! うふふふふふ! 伝わればいいのに! 伝わってしまえばいいのにね!!」
加速した空気に色がついて、男の狂気が音に乗り移ったような気がした。それは燃えるような赤。紅。朱。緋。あか。流れる血のような、歪な色。同じメロディが、優しくも攻撃的な音になる。伝わらないと嘆いている割に、感情を載せるのはうまいじゃないか。お前の技巧でこんなにも痛い音になっているぞ。
「まさか! まさかこのパーティーでそっくりさんに出会えるとは思ってなかったよ! 隠し切れない冷たい目つきまでそのまま! アハハハハハ!」
わけがわからない。なんだこれは。トリップとはこういうものなのか?
「で、それをここで発散して、お前これからどうするんだ?」
とにかく、話を続ける努力をする。
「これから?」
「ここで、ずっとピアノ弾いてるわけにもいかないだろう」
「決まってるじゃない。HN当てて、賞金ゲットして、遊んで暮らすの!」
前向きな返答と変わらずの笑顔。どうやら、バッドトリップしている、というわけでもなさそうだ。
「賞金は俺がいただくよ」
「あははははは、無理なんじゃないの? 楽器がないなら話術を磨かなきゃ生き残れないよ!!」
楽器があればHNがわかるのか。生き残れないとはどういうことだ。俺のことが何も判らないと自称している奴に、なぜ断言されなきゃいけないんだ……。確かに最初にミスは犯したが。
「すまん白峰。知ってるだろ、俺の本職はフィクションなんだ。今はお前を連れて帰れればそれでいい」
「え? 何? 聞こえない!」
「絶対に、負けないからな」