鉛の鎧
高校生のとき――あのときは、やがてなくなるであろう自由と可能性や憧れを手放しにできると思っていたほど、僕らは必死に空っぽだった。
まだ二年近くしかたっていないというのに、あの日の夏、僕達の抗争が終わりを告げたあの日の夏が、なによりも遠く感じる。
〇
些か長すぎるようにも思える夏休みに入ってから、随分と日がたった。
池袋から逃げるように地元の大学へ進学して、二年目の夏がきた。正臣のいない田舎はやはりなにもないように思え、僕はなにもする事がなく時間を食いつぶしながら休みを消化している。
埼玉に帰ってきてからというもの、中学時代に面識のあった後輩の女の子や同じ委員会だった子からしきりに遊びに誘われるようになったが、なんだかどれも乗り気になれずに断ってしまった。
大学の図書館で借りることのできる限界まで本を借り、読んで、返してまた借りる。その繰り返し。
そんな毎日を繰り返して三週間目の今日。相変わらず僕は、読み終えた本の入った肩掛け鞄を提げて大学に来ていた。
ずっしりとした重みを肩に感じながら見渡すキャンパス内に人影はなく、蝉の声と木々のざわめきだけが静かに響いている。
見上げた空はどこまでも青く、幾重にも連なる山には木々が生い茂っているけれど、僕にはなんだかその色も褪せて見える。
山だけじゃない。カーテン越しに感じる柔らかな日差しも、黄金色の波が寄せては返す稲穂も、降り積もる雪の影から見える椿の紅さも、全て。小さな頃は僕という人間を構成する一部だとすら思えていた景色全てが、なんだかどうでもよいもののように思えてならなかった。
これから毎日毎日毎日毎日毎日毎日、僕は色のない日々を過ごすのだろう。
自分で選んだ結末に後悔はない。後悔はないが、時折、胸を刺すような空虚に苛まれることがある。
「帝人君」
あちこちから蝉の鳴き声が響いているのに、背後からかけられたその一言が、どんな音よりも静かに響いた。
忘れたくても忘れることのできないその声色に、目の前が一瞬暗くなる。
さっきまであんなにうるさく思っていたはずの蝉の鳴き声が、壁を一枚挟んだようにぼやけて聞こえる。
逃げないと、と思う意識の上を、逃げても無駄だと諦めている意識が流れてゆく。二枚重ねになってしまった意識に気を取られていると、背後から肩を掴まれた。
そのまま背を向けていた体を反転させられ、図書館の壁に押し付けられる。
「久しぶり、帝人君」と言う声は柔和だが、その声色と裏腹に、僕の肩を掴む手のひらは杭のように僕の身体を壁に縫い付ける。
「臨也さん……」と目の前にいる人物の名前を呼ぶと、相変わらず彼が愛用しているらしいファーコートの襟元が風にそよいだ。
「僕に、何か用ですか……?」
渇いた喉に唾液を送ろうとしても、うまく飲み下せず、胃に熱い外気の塊だけが落ちてゆく。
「久しぶりに恋人が会いに来たっていうのにそういうこと言っちゃうんだー帝人君って意外とひどいねー」
そう言って笑う臨也さんの纏う、ファーコートはやっぱり真っ黒で、他の色などなにもない格好だ。けれど、そのときの僕には、その黒が何よりも色付いて見えた。
「“元”恋人の間違いでしょう」
「相変わらずつれないね。せっかく君が喜びそうな情報を提供してあげようと思って、仕事返上してこんな偏屈な所まで来てあげたっていうのに」
「情報って……。あなたの言うことを信じるとでも?」
「えぇー、ひどいなぁ。これでも情報屋としては優秀な方だけど?」
「情報なんて今更なにもいりません。もう必要ないものです」
「まぁ確かにこんな片田舎で情報なんて持ってても使い所なさそうだよねぇ……。でも今回の情報は、ダラーズに関しての最新情報! 気にならない?」
「……え?」
僕がかつて捨てたはずの名前に、心臓が大きくはねる。思わず引きつった声がでたが、臨也さんは気にせずに「元恋人価格としてちょっとだけタダで教えてあげるよ」と言って言葉を続けた。
「九月三日昼頃、一度ネット上から姿を消したはずの無色透明なカラーギャング“ダラーズ”が出現。俺も見てみたけどさ、全部一緒だったよ。しかも、パスワードも変わってないし」
思わず、固唾を飲む。
ダラーズが、復活した……?ダラーズは表上、悪ふざけがすぎ、粟楠会と平和島静雄に目を付けられ解散を余儀なくされたことになっている。まぁ、表上といっても、ほぼその通りなのだが。ともかく、悪戯目的や名声目当てだとしたら、ダラーズの名前を語ることに対してメリットなど最早ないものなのだ。
しかも、パスワードが同じと言うことは、あの頃にダラーズに所属していた人間ということになる。
脳裏に、池袋での思い出が走馬燈のように駆け抜けてゆく。
暑さのせいでかいた汗とは別の汗が、こめかみを伝い落ちる。
こめかみの奥でちりちりと、何かが焼けるような音がする。握った手には、じっとりと汗をかいていた。
「その反応を見ると君がダラーズを創りなおした訳じゃなさそうだね。まぁ、予想はしてたけど」
「僕は、なにも知りません……。そんな、ダラーズが……復活だなんて有り得ない……」
僕が創り手放したものを、勝手に再創設したことに対する怒りと、ダラーズというネット上だけで存在し、ましてや一度消えたものが波に押し流されることなく再び姿を現した事に対する繋がりの喜びが、綯い交ぜになって心に押し寄せてくる。
「俺としてもダラーズって名前で目障りな動きされると困るから、ちょくちょく探りを入れてるんだけど、なかなか尻尾を掴めなくてさぁ……。だから、夏休み中だけでいいから君の力を借りたいんだけど」
「どうかな?」なんて小首を傾げながら訊ねてくる男の言いなりになることが、どれだけ馬鹿げているかなんて分かりきっているのに、緩む口元を手で押さえて誤魔化すことすらできない。
僕の知らないところで――手の届く場所で、誰かが僕の抜け殻を使って僕の知らないことを起こしている。
いけないことだと分かっている。でも、それでも、初めて池袋で生きる都市伝説を垣間見たときに感じた、胸を焦がすような感情が胸中から湧き出て収まらない。
「情報を……」無意識に、震える唇から言葉がこぼれる。「情報を、売って下さい」
臨也さんの少し冷えた指先が、僕の歪につり上がった口角をなぞった。
「いいよ。君の知らないこと、全部教えてあげる」
レンガ造りの壁に押しつけられた背中が、燃えるように熱い。けれどそれ以上に、心臓が締め付けられるほどに熱く苦しい。細く吐き出した息は、歓喜の色に染まっている。
この男の手を取ることが、どれだけ馬鹿げていることなのか分かっている。どれだけ愚かなことかも分かっている。もう子供でいられないことも分かっている。
でも、それでも――僕は今でも、未練がましく、子供の抜け殻を背負ったまま生きているのだ。