失くさないための魔法
押し付けた右頬と枕の間に薄っすらと汗をかいていた、閉じた目蓋の闇がほのかに赤く透けて、目尻の筋肉がむず痒そうに引き攣り、浅い眠りの波間に浮かんでいた意識をうつつに引き上げた。
村越が目を開けるとまだ霞がかかった視界、真横に広がる風景はいつものあの部屋、最初もう朝なのかと思い、それから横目で煌々と灯っている天井のシーリングライトを見上げ、目を閉じてからまだそれほど時間が経っていないのだろうかとも思った。
(消し忘れか……)
時計を覗き込むともう真夜中を随分過ぎた時刻、隣で眠るジーノの寝息を確かめて、サイドボードの上のリモコンへ手を伸ばす動作の途中、まだ寝惚けている胸を内から叩くように不意に心臓が大きく鼓動を打ち、咄嗟に弾かれるようにジーノの寝顔に視線を戻していた。
「──……。」
そう言えば、寝顔をまともに見たことがなかったと、今更のように思う。
いつもジーノはシャワーの後「まだ髪が乾いてない」等と言って遅くまで起きているようだし、朝は村越が目を覚ます頃にはもう既に起きて身支度を済ませている。そのサイクルが当たり前になっていたから、別段それがどうだと考えたこともなかった。
村越は珍しいものを見るように、横目で──不意にジーノが目を覚ましても言い訳が効くように、横目で──その寝顔を眺めた。
高い鼻梁が影を落とした右半分、長い睫毛を並べて閉じた目元の薄い皮膚は青白い。いつもその顔に薄膜のように貼り付けている緩い微笑がないせいか、表情を失くした寝顔はひどく無機質なものに見えて、何故か不安で後ろめたい気持ちになる。
耳を澄ませてもう一度、寝息を確かめたところで目を逸らした、長く見ていてはいけない気がして急いでリモコンの消灯ボタンを押す。途端に青暗く色を落とした部屋、浅く早い鼓動を打ち続ける左胸を抱えたまま、ジーノに背中を向けて横になり再び目を閉じた。
つとめて頭を空にして数分間、或いはたった数十秒間、うとうとと意識が溶けてまどろみかけた頃、背中の後ろでシーツを擦る音と、うなされたような溜息が聞こえる。
それからびくりと身体を起こす慌ただしい気配。
焦ったようにシーツの上や枕元を探る気配。
何かあったのだろうかと、沈みかけた意識の片隅で考えたその時、ジーノの伸ばした手が、爪の先で掠めるように村越の肩に触れて止まる。
「嗚呼……──よかった」
小さな呟きと、サイドボードの上のスタンドのスイッチを点ける控えめな音、いま目を開けたらきっと部屋は橙色の薄明かり。さっきとは逆に、自分の頬から耳のあたりにじっと視線が落とされているのがわかった。そしてジーノの指先が後ろから、今度は柔らかくそっと肩に触れ、寄り添うように村越の背中に体温を重ねて横たわる。
もしかして、部屋の灯りは──消してはいけないものだったのだろうか。
まるで子供みたいだ。
背中に頬をすり寄せる感触、安堵の溜息がこそばゆい。睡魔につかれて重くなった肩を揺すり身じろぎをすると、更に強く押し付けられる吐息と頬擦り、重なった部分が生温かい熱を帯びて、お互いの体温が肌と肌に馴染み合う、その感覚に身を委ねるように眠りに落ちた。
作品名:失くさないための魔法 作家名:サカエ