紫煙たなびく
今、ひとつの命が終わろうとしています。
彼は人を騙し欺き嘯いて、
それでも人を愛し、愛して、そうして憎み、
混沌と秩序を混ぜこぜにしたまま、
ゆっくりと人生を閉じようとしていました。
長くも短くもない人生。
誰に看取られることもなく、
このまま消えていくのでしょう。
最後に残す言葉は誰にも届かないまま。
「・・・シズちゃん」
彼は一言そう言いました。
それはもうしばらく見ていない、
彼が一番嫌って憎んで貶めて嘲った男の名前でした。
彼が覚えているのは、王冠のような金の髪。
白と黒のコントラスト。
優しい色彩の瞳はいつでも苛烈で。
それでも人一倍寂しがりで、けれど一人でいることしかできない、
臆病で不器用な男だったということだけです。
その男は、人でありながら異端。
それは、彼と同じものだったのでしょうか。
少なくとも、二人は人というカテゴリから外れがちでした。
彼は今どうしているのでしょうか。
会わなくなって、会えなくなって、もう何年も何十年も経ちました。
彼がいない日々は穏やかで。
決してさみしいなんて、思いませんでした。自分ではそう思っていました。
けれど今、思い出すのは彼のことばかり。
彼のこと、ばかり。
「・・・シ・・・ゃん・・・」
言葉は声にならずに漏れるのは乾いた咳ばかり。
目を閉じると、見えたのはあの金色でした。
もう一度会いたいなんて。
・・・絶対に思わないけど。
最後まで天の邪鬼な彼は、そのままこの世界から消えました。
「おい、起きろ。ノミ蟲」
乱暴に揺り動かされ、目が覚めました。
眼前に広がるのは、金色の。
「・・・あれ、シズちゃん?」
おかしいな、記憶が混乱している。
ここはどこで俺は誰だっけ。あ、これって記憶喪失の鉄板だな。
「てめー、来るのがおせーんだよ」
金の髪、白と黒の服。それから。
一番好きだった、強い光を宿す琥珀の瞳。
「それにしても若づくりだな」
平和島静雄は、折原臨也を見てそう笑いました。
臨也もいつもの黒づくめの格好です。袖には隠しナイフまでご丁寧に入ってました。
「憎まれっ子世にはばかるの典型だったくせに」
煙草に火をつけると、静雄はそう言いました。
臨也は静雄に尋ねます。
「そういうシズちゃんこそいくつさ」
キミだって若づくりなんじゃないの?
そういう臨也に、静雄は軽く笑って答えました。
「40」
肺癌と喉頭癌な。若いと進行速いんだと。
「池袋最強も癌には勝てなかったか」
「新羅もいなかったしな」
二人をつないでいた共通の友人は、
最愛の恋人とともに恋人の故郷へ行ってしまいました。
もうずいぶん前の話です。
それ以来、二人をつなぐ糸は切れてしまっていました。
「でも、知ってたんだろ?」
「なにを」
「俺が先に死んだこと」
静雄が静かに聞くと、臨也は小さく頷きました。
「知ってた、よ」
「・・・・・・」
「だって俺は、新宿のオリハラだもの」
本当は知っていました。
会いたくても、もう会えないということ。
けれどそれを認めたくなくて。
記憶に蓋をしていました。
二人はそのあと少し黙ってしまいました。
煙草の煙が白くたなびいています。
それにしても、と臨也は話題を変えました。
「肺癌で死んだくせに、それでもたばこ吸ってんの」
静雄は一瞬ドキッとしたそぶりを見せ、それから顔をそむけました。
「仕方ねーだろ。こういう目印がないと、てめえがここにこれねーから」
臨也は目を見張りました。
つまり彼は自分のために煙草を吸っていたのでしょうか。
そうまでして、会いたかったのでしょうか。
「俺のためなの」
「・・・・・・」
「シズちゃん」
こちらを向かない彼に小さく「ありがとう」と呟きました。
ここには来ないかもしれない、どこか別のところで違う誰かが呼んでいるかもしれない。
絶対にもう一度会えるなんていう保証はなかった。
それでも、待っていてくれた。長い長い時間を。
暗闇の中で静雄の灯す小さな明かりが、臨也を呼んでくれたのでした。
「そろそろ行こうぜ」
「うん」
どこへ行くのか、ここはどこなのか、いつまで一緒にいられるのか。
そんなことはどうでもいいことでした。
もう一度会えた。
それだけでよかった。
それだけで、よかった。
二人は、どこまでも続く暗い平原を、あてもなく進んで行きました。
煙草の煙だけが、いつまでもその場所に漂っていました。