遠い約束
静雄は、登校途中にたまたま運悪く臨也と顔を合わせてしまった。
臨也は静雄を見ると、少し考えた後に言ったのだ。
「これから、海へ行こう」
「・・・・・・気は確かか?」
もうすぐ卒業式という二月下旬。
この寒空に、何が悲しくて男二人で海へ行かなければならないのか。
しかも静雄も臨也も、卒業するために補習を受けに行く途中である。
あれだけ暴れてその程度で卒業させてくれるとは懐の広い学校だな、とは門田の弁だ。
それだけ早く出ていってほしいってことでしょ? と新羅は笑っていたが。
とにかく、これから二人は学校へ行かなければならない。
さらに言えば、これは重要なことだが、決して二人で出掛けるほど仲良くはない。
どちらかと言えば険悪であるのだ。なのに。
「行こ? シズちゃん」
気づけば臨也は静雄の腕をつかみ、池袋の駅へと向かっていた。
振り払うのは簡単なことだった。けれど。
その手を振り払わなかったのは。
「はい、切符」
「あ、金」
「いいよ、今日は俺が言い出したんだから」
静雄に切符を渡すと、臨也はホームへ向かう。
湘南方面までは電車一本でいける。そこから乗り換えればすぐに海だ。一時間くらいで、この雑多な人波から本物の海へ行ける。不思議な感じだ。
タイミング良く来た電車に乗り込み、ふたりは無言で電車に揺られていた。
都会を抜けるごとに人の数は減っていく。
けれど、静雄は何を話していいかわからないのだ。
誘ったはずの臨也は黙って窓の外を眺めている。
自分はなぜ今ここにいるのだろう。静雄は少しだけそう思った。
会えばいつも命がけの追いかけっこをする仲なのに。
今日はどうしてこいつは何も言わないのだろう。
俺はどうしてついてきてしまったんだろう。
考えてもわからなかったので考えるのをやめた。
冬晴れの綺麗な空を見て、学校へ行くのが嫌になった。それが理由でいい。
それ以外の理由なんて、追及しないほうがいい。
静雄はそう思って、言いかけた言葉を飲み込んだ。
「二人で出掛けるのは初めてだね」
途中で乗り換え、もうすぐ鎌倉、といったあたりで臨也がポツリと言った。
静雄は臨也のほうを見る。
臨也はこちらを向かずに、窓の外を見ていた。
なんだか落ち着かない気分のまま、静雄は「そうだな」と返した。
「あれだけ一緒にいたのに」
臨也の言葉は、静雄に向けたものではなかった。
それがわかったので、静雄は何も言わずにただ外を見ていた。
「・・・・・・寒っ」
「そうか?」
「シズちゃん寒いの平気だもんね。でも俺は寒い」
いつもの服の上から黒いコートを羽織った臨也はそれでも寒がった。
補導防止のためか、コートのボタンはすべて閉めているのに寒そうだ。
静雄も同じような格好だが、そんなに寒さは感じなかった。
1・2年前なら、コートの前を閉めようが学ランを脱ごうが、一目で高校生とわかっただろう。けれどもう、二人とも学生服さえなければ高校生とは思われない。
卒業間近というこの過ごしてきた月日は、確実に降り積もっているのだ、と感じた。
その三年間、最も近くて遠かった男と、今ここにいる。
それは不思議な感じだった。けれど決して嫌ではない。
静雄は寒がる臨也のために缶コーヒーを購入した。
「ほら」
「ありがと、シズちゃん」
臨也は甘みを好まなかったな。それを自分が知っていることに静雄は少しだけ驚く。
それから自分が甘いものを好きだということを、この男も知っている。
三年という月日はやはり、短いようで長いのだろう。争っていてばかりの自分たちの間にさえ、共通の認識ができるくらいには。
「あったかいね」
臨也はそう言って笑った。
今日みたいに口数が少なければ、一緒にいても平気だな、と静雄は思った。
いつも臨也は口数が多すぎる。口数が多いから、静雄の怒りに触れる発言も多くなるのだ。口を開かなければ、一緒にいることくらいはできるのに。
「行ってみようか」
コーヒーを飲むと、臨也は歩き出す。静雄は黙って後ろを歩いた。
駅から15分ほどで海が見えてくる。冬の海は寒々しくて、なんだか淋しかった。
二人で前後に並んで海岸沿いを歩いた。言葉はない。海鳴りの音だけが聞こえる。
「シズちゃん」
臨也は振り返ると手を差し出した。
静雄が首をかしげると、笑って「寒いから手、つなごう」と言った。
いつもの静雄ならはねつけるだろう。馬鹿なこと言うな、と。
けれど今日はなんだか調子がおかしい。この男が珍しく静かなせいかもしれない。
だから静雄は、差し出された手を素直に取った。
臨也は静雄の手を引きながら前を歩く。
後ろから静雄は黙ってついて行った。
はたから見るとおかしな絵柄だろうな、と少しだけ思う。
けれどどうでもいいことだ。今は。
海鳴りの音は静かで賑やかだった。
何も言わない臨也と、何も言えない静雄は手をつないだまま歩いている。風が冷たい。
ふと、臨也が立ち止まった。静雄も隣に黙って並ぶ。
「綺麗だね」
「・・・・・・」
静雄は何も言わなかった。それを肯定と受け取ったのか、臨也が笑った。
「一度好きな子と冬の海を見てみたかったんだ」
高校生のうちにさ、と臨也は呟いた。
これで心残りはなくなったよ、臨也のその言葉の真意を静雄は追及しなかった。
頷きも否定もせず。ただ黙って手をつないでいる。
これはきっと、惜別の情だ。
置いて行く何か、に。
臨也はこの海に何かを捨てに来た。
静雄には今それが分かった。
その捨てていく何かが、何なのか。
そのことを静雄は聞かなかった。聞かなくてもわかる気がした。
だから静雄もここに捨てていく。
卒業したらもう会えなくなるんだな。
静雄は少しだけそんなことを思った。
三年もの間、毎日のようにともにいたこの男と。
それはやはり、決して短い時間ではなかったのだ。
二人はそのまま、日が沈むまで海で過ごした。
帰りの電車でも二人は無言だった。
何も言わずに、黙って電車に揺られていた。
その日から臨也は補習には出ず、卒業式まで顔を合わせることはなかった。それでも卒業できるんだからよっぽど出ていってほしかったんだね、と新羅がまた笑った。
あの海へ行ったことは、二人の間では『なかったこと』になった。
それを静雄は望んでいたし、臨也もそう思っているだろうと知っていた。
あの海に全部捨ててきた、置いてきた、だから。
もういい。
その捨ててきた何かが恋情と言うものだということを。
二人は知っていたけれど口にはしなかった。
二人の間にそのような感情はいらなかった。
その感情はどこへも行くことができなかったから、置いてきたのだ。
けれどもし、いつか。
お互いがお互いに少しだけ譲り合えるようになったら。
・・・・・・あの海へ、拾いに行こう。
それは、決して口にすることのない、密やかな約束事。
それがいつになるのか、二人にはわからなかったけれど。
それはきっと、そう遠くない未来。