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月の棘

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 痛いのは怖くない。「痛さ」という刺激があると、自分が消滅しないような気がするから。
 眠れないのは少し怖い。夜に吸い込まれてしまうような気がちょっとするから。消えてしまいたい日もあるけれど、そのときは怖くないのはなぜだろう。人が僕のことを「本当に死のうとなんて思ってないんだよ」というのは半分は本当で半分は当たってない。誰だって死にたい夜はあるはずなのに、みんな嘘つき。

 今日は吸い込まれそうな日。羊を一緒に数えてくれるパパもいない。甘えてくる花もいない。生きるためなのか、腹の虫が鳴く。怖いのもおなかがすいたのも本当。特に食べたいものはないけど、煉慈に見つからないように何か食べよう。証拠を残したら負け。部屋にはカップラーメンがあるけど、水道もお湯を沸かす器具もない。勢いをつけてベッドから降りる。

 厨房には月明かりがあふれていて、電気はつけなかった。やかんはしまわれていないし、コンロに火をつければ少し明るくなる。お湯を注ぐくらいならこのぐらいでも大丈夫。スープを飲み干して、お箸を洗えば証拠隠滅終了。

「さっちゃん?」
 ドアが開いて、気遣うような声が聞こえた。この友人はとても他人に敏感。僕の部屋の真上に住む地獄耳は、きっと僕がベッドから飛び降りた音にでも反応して様子を見に来たんだろう。音って上に、そんなによく響くものなのかな。まあここ、古い建物だしね。
「瞠? おなかすいたの?」
「いや、それはさっちゃんでしょうが!」
「ラーメン半分食べる?」
「んー、じゃ、4分の1だけもらう」
「じゃ、4分待機」
「3分じゃないの?」
「待ち時間4分のこだわり麺が好き」
「さいですか」

 お互い、ほかの住人には見つかりたくないから電気は消したまま。どうやら今夜は満月。高く上った地球唯一の天然衛星は、瞠の顔をはっきりと照らす。
「……月、大きいね」
 沈黙が耐え切れないというように、気遣い屋が喋る。
「うん。そうだね」
「ええと、つ、つきから女の子が来たらどうする?」
 ここは間髪いれずに答えるべき。
「面白い子なら付き合う」
「え、付き合っちゃうの?」
「女の子、っていうからには意思は通じるんでしょ?」
「通じたら落とせちゃうんだ……」
 そんなの当たり前。女の子なら自信がある。
「瞠は?」
「仲良くなれたら、友達になりたい」
「普通だね」
「普通で悪かったな!」
 ここは笑うところ。背中に月光を受ける僕の顔は、瞠にはよく見えるのかな。

「さっちゃんさあ、地球に来た月の住人が特殊能力を持ってたら何が有利だと思う? ……ごめんヘンなこと聞いた」
 謝るなら沈黙なんて埋めなくていいのに。
「竹取物語だと魅了、だね」
「流してくれるのね。……実際、かぐや姫ってなんのために来たのかわからないじゃん。下等生物に無理難題押し付けて、気に入った奴と叶わぬ恋をして帰るため?」
「かぐや姫がスリリングな休暇を楽しみに来たのなら、悪くない滞在だったんじゃないの?」
「わー、なんか幻想的な雰囲気ぶち壊し」
「不死になった帝にまた会いに来るつもりだったんならちょっとしたすれ違いだし」
「そういう自業自得な悲恋なんすね」
「侵略しに来たんなら洗脳すればいいし」
「……さっちゃんてSFとか好きだっけ?」
「だって、ウサギなんていても面白くないし。瞠はゲームが好きでしょ」
「好きですよ! マンガもゲームも好きですよ!」

 携帯のアラームが振動する。
「できたよ。瞠の分、器に移す?」
「冷めちゃいそうだからさっちゃんが残してくれた分でいいよ」
「カップ麺は延びる前が勝負」
「じゃ、早めにお願いします」
 ラーメンってそんなに食べるのに時間がかかるモノ?

 月の影が瞠に掛かる。
「さっちゃん、俺はね……」
「うん」
「俺はね、心の中を読み取る能力とか要らなかったんだよ」
 表情は読み取れない。
「うん」
「わかりたくなんか、なかったんだよ」
「うん」
「普通の地球人に、なりたかったなあ」
「うん」

「さっちゃん、俺と月に逃げようよ」
「瞠は、カインなの?」
 カインはアダムとイヴの子供。アベルとセトの兄。
「……うん」
「弟を殺したの?」
 人類最初の兄は、人類初の人殺し。
「弟がいたらうれしかったけど。弟ぐらい大切な人に、殺したほうがましなくらいなことをした」
「追放される、じゃなくて逃げるの?」
「神様って意地悪だよね」
「そうだね」
「神様が追放してくれないから、自分で行く。世界は俺に残酷でもいいから、美しくあってほしいんだよ」
「だけど寂しいんだ?」
「……うん」
「わかった。瞠、一緒に行こう。雑用はしてよね」
「ありがとう、さっちゃん」
 月への迎えはいつ来るんだろう。

「瞠」
「なに?」
「僕は、名前を呼んでくれたらそれでいい。地球人でも宇宙人でも」
「……あはは。さっちゃん純情!」
「まかせて」

「咲」
「なに?」
「月で女の子を捜しに行こう」
「茨の生えた女の子?」
「本当に好きになったら、どんな鋭いトゲだって平気で背負っちゃうよ」
「じゃあ僕はその子を口説き落とせばいい?」
「俺はどこまでも女運がないんだな!」
「自主的に行くんだから、おとなしく担いだものを運んでなよ」
「すみません」

 差し出しづらくて、瞠の分のラーメンは延びてしまった。でも笑顔で食べてくれるのが瞠。今日はもう、怖くない。
作品名:月の棘 作家名:さかな