無題
気づけば日付が変わっていて、編集部を出たのは編集部内で律が最後だった。
締め切り前の他の編集部の人に軽く挨拶をして会社を出た。
ほとんど乗客のいない電車に乗ったばかりのタイミングで、編集長から電話が掛かってきたのは十数分前のこと。
追加でメールが来るわけでもなく、そのときは駅に着いたら折り返して電話をかけ直そうと思っていた。
イスに腰を掛けると立ち上がれなさそうなくらい、身体は悲鳴を上げている。
それでも、明日は企画書の締め切りで、作家から送られてきたネームの確認もしなければならない。
などと、ぼんやり考えているうちに編集長の電話をすっかり忘れていた。
それでも、目の前の事態はそれを思い出すのに十分な材料だった。
よぉ、と高野さんはのんきな声を出しているが、その真意が分からず律は戸惑う。
「あの、電話……なんですけど、電車の中だったので……」
「ああ、いい。会社出たなら一緒だったから」
会社に用事でもあったのだろうかと思わず首をかしげる。
「会社に家の鍵忘れたから、泊めろ」
「へー……って、うちにですか!?」
大変ですね、と言おうとしていたのに他人事では済まされない状況になっている。
「他にどこがあるっていうんだ」
うっ、と言葉に詰まる律。
「いえ、でも、うち散らかってますし、仕事を残してるんで……」
泊めたらまた散らかっているだの文句を言われて、ベッドに押し倒されるに決まってる。
明日も仕事があるのにどうしてもそれだけは避けたかった律は、必死で言い訳を並べ立てる。
言い切ったところで、何も反応しない高野さんの表情を伺う。どこか諦めた表情を浮かべて、ため息を吐かれた。
「だったらいい。明日の企画書、楽しみにしてる」
伸びてきた高野さんの手が、律の髪をくしゃりと撫でる。
不意に離れる手に寂しさを覚えて、あ、と思わず声を出した。
「高野さん、」
「つーわけで、ふざけた企画書出して来たらぶっ飛ばすからな」
仕事のときと変わらない口調、態度で恐ろしいことを言い放った隣人兼編集長の高野さんは、置いていたカバンを抱えなおしてエレベーターに足を向ける。
律が呆然と立っていると、エレベーターの下向きのボタンを押した。
「えっと、高野さんどこへ……?」
「会社戻るんだよ。どうせ家に入れねぇし」
「え、でも終電……」
時計を何度確認しても、今から会社へ行って戻ってくるには電車がなくなっている時間。
「泊まって、ついでに明日の分の仕事終わらしてくる。他にいくところもないからな」
一瞬、友達の家とか、と口にし掛けて横澤さんの顔が頭をよぎった。
締め切り前でもないのに会社に泊まるなんてと思う反面、横澤さんのところへ行ってほしくないという思いも強い。
なんて声を掛けていいのかわからず戸惑う。
チン。
エレベーターの階を示す電光板が12を示し、ドアが開く。
一歩足を踏み込もうとした高野さんの腕を強く引っ張った。
突然の律の行動を不審げに見る高野さんから思わず目をそらして口を開く。
「い、一泊くらいでしたら、ソファを貸してあげてもいいですよ」
ああ、もう、言ってしまった。律が後悔している間、沈黙が続いて、エレベーターのドアが閉じる。
「……ソファって言っても、どうせ服とか散らかってんだろ。どうせならベッドで寝させろ」
「はぁ!? なに言ってんですか。泊めてあげるだけありがたいと思ってください!」
腕をつかんだ手を離すと、抱きしめられる。
高野さんの腕から逃れようと必死になるが、放してくれそうにない。
「ちょ、放してください」
「お前の部屋、二度目だな」
耳元で甘くささやかれて、それだけで顔が真っ赤になる。
ああ、もう。
嬉しそうな高野さんの声音に、律は何も言い返せなくなった。
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携帯サイトのTMSS企画に投稿させていただきました。
(どちらもリンクは繋いでもらっていません)
アニメ第2期もですが、6巻がすごく楽しみです。