帯をギュッとね
紙の上でその理屈を説明してもさっぱり理解しないのだろうに。
「鬼道さん、源田の奴割とやりますね」
「ああ、あいつが苦手な道がつくものは書道くらいだ」
立っていったと思ったら息も乱さず戻ってきた佐久間が、案外面白がっているような声音でそう声をかけてくる。諸肌脱ぎになり袖を腰でしばってタンクトップ姿、武道の精神も何処吹く風のその様子に、鬼道は呆れ顔を向け「佐久間、サッカー部としての体面もある。二、三人くらいは保たせてこい」と呟いた。
「オレは球技の時とかちゃんとやってるんでェ、これでやっと源田とトントンっすよ」
「それを言ってやるな、あいつのあれは不真面目でああなっている訳じゃない」
「でもま、サッカー部の体面とか言い出したらラケット系とかの源田はもう見学してろって感じっすよ、なぁ?」
人の悪い笑みを浮かべた佐久間の台詞を受け、後ろから声をかけられる。普段ぎらつくまでに何らかの整髪料でなでつけられている髪が若干乱れる程度には組み手をしてきた様子の辺見がやってきて、佐久間とで鬼道を挟むような形で隣に座った。生来血の気の多い男である。授業とはいえ人相手に合法的に戦えるのは楽しかったらしく、何処か普段鬼道に相対する様子よりは浮ついた雰囲気だった。
「お前等、俺はまだこれから組み手だ」
「や、もうオレらに紛れてさぼっちゃってもいいんじゃないすか?変な怪我させられてもまずいっすよ」
「佐久間、俺がこの程度のものに遅れをとるとでも?」
慌てて何事か弁明しようとする佐久間と、柄にもなくフォローのような要領を得ない言葉をつなぐ辺見を尻目に鬼道は立ち上がった。緩んでもいない帯を締め直し、ぐるりと視線をやると、また一人、源田に投げられた者が地を這ったところだ。生き生きと「次は!」と声を出す源田に向け、「俺と組んでもらおう」と声をかけた。
勿論、佐久間の言が鬼道に対する配慮半分、自らのさぼりに鬼道を引き込もうとする意図半分、その他に他意はないことは解っていた。しかしそろそろ、鬼道の立場からすると模範的な授業態度をアピールしなければならない。神経質な印象を与えるのは不本意だが潮時だった。
「鬼道!いいのか?」
「ああ、こっちでは待ちくたびれた」
「鬼道さん!ヤバいっすよ!」
「そうっすよ、何も源田とやらなくても!」
大層狼狽してとりすがる二人を振り切り源田の正面に相対する。軽く構えて目を合わせると、上気した顔が嬉しそうに笑いかけてくるのに虚を突かれる。
こいつは、俺の後ろでこんな顔をしているのだろうか。
だったら良い、そうであってほしい。
ふとそう思った。勝ち続けることを義務づけられ、負けは許されない、有り得ない帝国学園のサッカーを、しかしこの男にはこんな顔のままやっていてほしい。
「行くぞ鬼道、手加減なしだ!」
「ああ、望むところだ」
言うなり源田の猛攻がはじまった。衿を取ろうと顔の横をかすめる手を右に左に避けながら、思っていたよりも保たせられないだろうと予測を修正する。
鬼道はこの組み手で源田に綺麗に投げられるつもりでいた。仲間内の気安さから源田に対して言いたい放題の佐久間、辺見を窘める意図と、不得手なことも多い源田の、本人には悪いが数少ない得意分野で花を持たせてやりたい気持ち。体格にそう恵まれているわけではない鬼道にしてみれば、佐久間の言う「変な怪我」を未然に防ぐには上手い源田に投げられて終えるのが一番安全だという側面もある。
だがやるからには勝てずとも一矢は報いたい。そう思ってしまうのも鬼道の性である。源田に対する配慮とは別の次元で、本能的に負けることに対する抵抗感は完全には捨てられないのだ。
苛烈さを増す源田の腕をかいくぐり、懐に入り込める隙を探す。少し乱雑に動けば首元や胸の辺りが露出してしまう柔道着に若干の躊躇を感じ、鬼道は下にTシャツを着ていたが、源田は素直に柔道着だけを身に付けている。見慣れたユニホームや制服姿では、源田は常に首筋すらも覆うようなものばかりを着用している為、その姿は幾らか目新しく鬼道の目に映った。隙を探す為に見ている筈が、見慣れない日に焼けていない肌に目を奪われる。綺麗に筋の出た首筋に、こちらに腕を伸ばす度に汗が伝い湿った髪の毛が幾筋も張り付いていく様は理由も解らず鬼道の落ち着きを揺らがせる。
「流石鬼道、簡単にはやらせてくれないな!」
心底楽しそうな源田の声が、後半は遠のいたような錯覚を覚える。しゃべった途端に髪の毛の先から伝った汗は、首筋、鎖骨、胸を伝い、もはや役目が胡乱になっている帯の辺りまで一直線に落ちていった。思わず目で辿った鬼道の目に、生成りの布の陰にひっそりと微かな存在を主張する、薄く色づいた突起が飛び込んでくる。温度のせいかそれとも摩擦によるものなのか、きわめてささやかながら、バランス良くついた胸筋から確かに立体として突出しているそれ。自分を含めてそんなところにそんなものがあることすら普段は意識していない、源田の乳首に鬼道の意識は急激に引き寄せられ、次の瞬間浮遊感と叩き付けられる衝撃が間髪を入れずやってきた。源田に投げられたのだ。
「……参った。これではお前に敵う訳もなかったな」
「いや、途中までは投げられると思っていなかった」
一瞬気が抜けたように思ったんだ、どうかしたのか?と顔をのぞき込んでくる源田に、鬼道はどういう顔をしていいのか解らない、という常にない状態に陥っていた。
鬼道を投げた時点で時間が来たようで、今は組み手の時の高揚も影をひそめた源田の穏やかな声は、何故かあの淡い色合いを思い起こさせる。今思えば、今日の授業で源田に投げられた死屍累々共はかなりの確率であれを目にした訳か。我知らず腹の底に淀む理由のない不快感と、目の裏にちらつく薄紅の突起にざわめく心を相当の自制心で抑えこみながら、鬼道は「源田、お前、これからは下に何か着ろ」と呟いた。