喜べ、私が死ぬ番だ
猫が獲物に狙いをつけていると喩えれば容易いが、奥底に住まう冷えた温度が彼を単なる獣に形容する事を拒んだ。視線が合ったのはほんの一瞬に過ぎず、まばたき一つを合図にふいと逸らされる琥珀色。それを執拗に追い回す、赤、緋色。
臨也は自分が何をしているのかきちんと理解していた。気持ちの悪い事だとも思っていたし、下らないとも考えていた。考えた上で敢えて、追跡を選択した。ただし歩みは止めたまま、視線だけを飛ばす。殺気など微塵も感じさせぬ後姿へ一点を集中させ、くちびるを動かさない状態で、言葉を投げる。そうする事が彼をこちら側へ引き寄せる最も有効な手段であった。だから臨也は今日もそうした。どうにかして少年を、絡め取ろうとした。
そして、逸らした。
肩の跳ねる気配がする。びくん、と。薄汚い壁に背を預け、雲行きの怪しい空を仰ぎ見ながら、臨也はその姿を直接確認はせずに、ただ魚がもがいているようだなあと勝手な事を思った。その一方で標本に刺さる蝶を思い出し、緩く首を振ってあれは蜘蛛に捕われた餌に似ているのではないか、などと思考を巡らせる。どちらにせよ彼は絶体絶命で、どうしようもなく、愚かなのだが、しかし自分を蜘蛛と結びつけた所で快楽は微塵もやって来ないので、そこで再び否定した。
飼い主が良い。
狭い水槽から少しずつ、少しずつ、水を抜いていく。酸素を奪う。情けなく開閉する口を眺めてひたすら笑う。かわいいなあ、かわいいなあ。繰り返して褒美を与えて、死に掛けの魚を愛でようか。
臨也は人知れず唇を弧に持ち上げて、笑っていた。同時にとても――恐ろしく、反吐が出た。気持ちが悪い。けれど追い払う事はしない。後頭部を壁にぶつけると、こつ、と軽い音がして、小さく痛む。それはある意味で、戒めに似ていた。ごく自然にスライドさせた視界には挑むような目つきでこちらを見る少年の瞳が浮かび、思い描いた通りの結末に、哀れむ事すら慣れてしまっている。
「何してるんすか」
そんなぬるま湯に浸かったままで、凡人のふりをするなんて馬鹿げていると思わないのか。
頭に当たった水滴を意識しつつ、男は肩を竦めて見せた。軽蔑を連想させる態度に正臣は何を思ったか先程のように双眸を細めて応える。あからさまな警戒心、ならば何故ここまで来た。臨也には彼の考えている事が時々理解出来なくなる事がある。分からないのではない、理解出来ない。限りなくしたくない、に近い、出来ない、だった。
「ひまつぶし」
たとえば自分がこどもだったら、この矛盾に気付くことが出来たのだろうか。
引き寄せて下唇を軽く挟み込んでやると、元々大きめの目がいっぱいに見開かれて、その時だけは綺麗だと思う事だって出来たはずなのに、掻き消して、打ち消した。噛み付かれる前に解放し、悔しげな顔を至近距離で眺めて上辺だけ満足をする。
悔しさと、怒りと、やるせなさと、ほんの少しの涙。
たとえこどもであったとしても自分は矛盾に気付いてしまうだろうし、正臣の方だってとっくに気付いているだろう。未完成のくせに頭だけよく働く事が災いして、回避ばかり考えて自滅するタイプである事は臨也もよく知っていた。故に、やめられない。
「気持ち悪いなあ」
「ほんと死んでください」
「…締めてもいいよ」
勢いを増した雨中、男は少年がそうしやすいように、そっと身を屈めた。次にゆるりと瞼を落として、待ち焦がれる。
むき出しの首に手が伸びる事はあっても、決して力は込められない。知っていた。
(100312)