しろとくろ。
ラグズ、ベオク。
獣牙、鳥翼。
貴族、平民。
剣士、魔法使い。
さまざまな人種、身分、境遇、思想の坩堝にいるようだった。彼らは3つのルートをたどってここまでたどり着いた負の女神ユンヌの使徒だという。首領の傍を離れるという選択肢はないものの、これだけたくさんの人々が集まっている様にビーゼはすこしおびえていた。
ベオクは嫌い。
―――わたしをいじめるから。
ラグズも嫌い。
―――わたしを見下すから。
所在なく、ただ首領の傍にはべり、首領と腹心ムワリムとの会話に耳を傾ける。
わたしの居場所はここ。首領の隣。ムワリムさんの隣。ビーゼをあの暗闇の中から救い出してくれた少年。ベオクの中で、ただ一人己にとっての宝石のような人。
「あ、リュシオン王子!」
首領が空を行く鳥翼の一人に声かけた。呼ばれた鳥翼族が首領に気がついたのか空から、共を連れて降りてきた。彼の姿を見た瞬間、身体の中央を雷が駆け抜けた。
誰もが愛し、いつくしむだろう白鷺のその美しい姿。金の髪、白い翼は冒しがたい神聖ささえ持っている。これは鳥翼族たちのすべてが持つシンパシーなのか。
ビーゼは、無性に腹立たしくなった。
こちらに歩み寄る白鷺の王子から遠ざかるように、首領とムワリムの影に隠れる。
これが白鷺か。
狼女王の連れていた白鷺は、もはや白鷺とは言えず、また遠い存在であったためにこのような感情にとらわれることはなかった。しかしこの白鷺を目の前にしてビーゼは平静でいられなくなった。
白鷺と首領は親しげにこれまでの旅路のことや情報など言葉取り交わしていた。ああ、早く会話が終わればいいのに。薄暗い感情に取り巻かれながら、願う。
恨むなと、首領は言った。
これまでを忘れ、これからを見つめて生きろといった。
だけどまだこの身は恐怖を覚えているし、受けた傷は癒えることはない。
なのにこの白鷺は今も輝くばかりの姿、心、矜持までも。鷹王という絶対的な加護の下でそれは眩しいほどだ。
どうして。
鷺ばかりがどうして。
森を焼かれた、家族を失った。セリノスの悲劇。戦う術を持たないばかりに鷺は滅んだという。ならば何故この白鷺は瑕疵ひとつおっていないのだ!
母を目の前で殺された。心交わした仲間は目の前で嬲り殺しにあった。わが身は口にするのもおぞましい行為に汚された。
わたしの心は一度死んだ。
知らず、ムワリムの腕をきつく握っていた。
「ビーゼ?」
首領が会話を中断して心配そうな顔でこちらを見ていた。
全身が冷たい汗でびっしょりになっていた。きっと己の顔色は傍目に見ても悪いのだろう。首領の小さな手のひらがビーゼの額にぺとりと触れた。本人は大きくなったというけれど、己から見ればまだ小さな子どもで、人より少し暖かな手のひらはすっかり気色を失っていたビーゼには心地よかった。
「大丈夫ですなんでもありません。ちょっと、人に酔っただけです」
「ごめんな、ビーゼ。おまえ人ごみ苦手だもんな」
先に天幕に戻って休ませてもらおうと口を開きかけたとき、やっと今ごろビーゼの存在に気がついたのか白鷺の王子が声をかけてきた。
「トパック、こちらは」
「おいらの仲間のビーゼってんだ。鳥翼族どうし仲良くしてやってくれよ」
「具合が悪そうだが」
白鷺は愁眉を寄せてこちらを見ている。
「ああ、ビーゼは人がいっぱいいるところ苦手なんだ。慣れないみたいで」
ムワリムの傍らからすこし後ろに下がる。なぜか白鷺王子が一歩近づいてきた気がしたからだ。
ラグズが嫌い。
ベオクが嫌い。
今はこの白鷺が大嫌い。
「おい、大丈…」
逃げるより先に白鷺の手のひらが伸びてきて、思わずそれを払ってしまった。乾いた、予想以上に大きく上がった音。
大理石のような白い手の甲が赤く染まる。リュシオンも、トパックもムワリムもビーゼのとった行動に驚きの顔を隠せない。
「あ…」
それを見てビーゼはきびすを返して逃げ出した。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめ…な……」
暗い天幕の隅、毛布に包まったビーゼは傍にやってきたムワリムに繰り返す。あの暗闇にまた置いていかれるのはいやだ、それだけはいやだ。ただひとつの光から分かたれるのはいっそこの身には耐え難い!
すすり泣くビーゼの頭をムワリムの大きな手のひらがゆっくりと撫でる。
「大丈夫、大丈夫だから。坊ちゃんはビーゼを置いて行ったりしないよ」
ムワリムの声音はどこまでも落ち着き、染み入るようだ。だけど心に生まれてしまった澱はムワリムのてにひらでもぬぐえない。
「首領、おこってるでしょうか……」
仮にも白鷺の、王族に手を上げるなどとは!
「あれくらいで坊ちゃんは怒ったりしない。それよりもビーゼのことを心配していた」
「………ごめんなさい」
「疲れてたのか?」
「…違います」
「…………」
「ごめんなさい」
ムワリムの肩に頭を預け、ビーゼはただ謝罪を繰り返す。けれどその謝罪を受けるべきはムワリムではなくて、ここにはいない、あの美しい鳥なのだ。
「ビーゼはリュシオン王子が嫌いなのか?」
種族は違えど、ムワリムは人の心を読むのに長けている。背後で隠れていたビーゼの心の機微を感じ取って、いま問うて来ているのだ。
「嫌い、だと思うんです」
「初めて会ったのに?」
「初めてだからこそ、あんなに綺麗で、いらついた」
あんなに白く、はかなげであるというのに穢れを良しとしない強い意志の宿る瞳。ただ光の前にあっても一瞬の揺らぎもしないであろうあの精神。光は、光であるからこそその存在を疑いもせず、足元に落ちる濃い影の存在も気がつかない。わたしは、地べたにあって這いずり回っているのに。
「ビーゼ」
「だって、あたしは汚れている!!」
ぼろぼろと、再び大きな涙がほほを伝う。
どんなに清らかな泉に身を浸してもその身体にこびりついた汚濁はビーゼから剥がれ落ちてくれず、ぬぐって何度もぬぐって皮膚が赤く腫れてもまだ取れぬ。
「ビーゼ」
泣きながら身体を一心にこすり始めたビーゼをムワリムはやさしくそっと抱きしめるだけだった。
光の前に晒されて、息が詰まった。
光の前に立って、思い知らされた。
この身が纏う、汚濁はいまだ己を離してはくれていなかったことを。