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青春生き残りゲーム

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物心がつくずっと前から、僕には恐いものがたくさんあった。
 たとえば、あたりを飛び回る黒い影。
 街には膨大な数の悪魔がいるというのに、『ふつうの人』には見えないのだと神父さんは言った。
 さして害はないのだといくら頭で理解していても、僕は長い間、その小さな悪魔を振り払う癖を直すことができなかった。奇異な行動をたびたびとる僕がつまらないいじめに遭うのは、今になってみれば自然なことのようにも思えるけれど、だからってそれが辛くなかったわけじゃない。
 そういうわけで、恐いもののふたつめは、謂れの無い暴力。
 幼い僕は、理不尽なその時間が過ぎるのを、ただうずくまって待っていただけだった。
 悪魔に対して何も力を持っていなかったその頃の僕は、外界すべてに対して無力だと思い込んでいたから。
 じっと我慢していれば、耐えられないことではなかった。
 
『――――雪男!!』

 そういうとき、決まって兄さんがこちらへ駆けてきて、特別強いわけでもないのに僕を囲むやつらをひとりずつ殴っていった。多勢に無勢というやつで、終いには兄さんはいつだってぼろぼろになっている。
 じっと防御に徹している僕よりもよっぽどたくさんの怪我をして、袖で乱暴に血を拭いながら、兄さんは笑って僕に右手を差し伸べた。
 一瞬のためらいの後、僕はおそるおそるその手を取る。視界はいつだって涙でぐしゃぐしゃだった。
 僕を助けようと暴れる兄さんは、時折ひどくやりすぎることもあって――、僕は、兄さんのことも恐かった。
 止まらない涙は、本当はいじめられている最中のそれとは別の理由だったのだ。
 新しい涙の理由を、兄に悟られないようにと怯えて。小さく震える手を、言葉を探すようにしながら結局なにも言えない兄さんが、ただ強く握ってくれた。――あの頃の僕は、うんざりするほど、弱い。

 僕は自分の名前があまり好きじゃない。
 兄は燐という名前で、その名の通り火のかたまりのようだ。
 複雑なことは嫌い、単純で熱しやすい。とにかく、まっすぐなのだ。馬鹿馬鹿しいほどに。
 実際、彼は火を司る能力を持っているので、――まぁ、そういうことなんだろうとは思うけれど。
 恐らくは兄の名前ありきの僕の名は、いたって平凡で面白みもない。おまけにやたら古風でもある。

 僕にとっても魔神が父なのだろうか。いや、やつらにとっての血筋は力そのものだ。兄さんだけが受け継いだ、あの、青い、炎。
 実際に祓魔師としてそこそこの格の悪魔と遭遇しても、僕に対して魔神の名を挙げるものはいなかった。
 考えてみれば、僕は兄さんに感謝するべきなのかもしれない。もしくは謝罪を。
 僕たち両方にその力が潜んでいたって不思議じゃなかったはずだ。全ての負の要素をもって先にこの世に生まれた兄さん。魔障のせいなのだろうか、僕はひどく小さな身体で生まれてきたという話だ。


「なぁ雪男。燐が恐いか?」

 いつか、神父さんに聞かれたことがある。
 本当は恐かった。小物1匹でさえあんなにも恐い悪魔の頂点に立つ存在の魔神、その力を色濃く継いだ兄さんのことが。
 うんと言えば、神父さんはがっかりするのだろうか。何も持たずに生まれてきた僕に――、居ても居なくても同じ、僕に。
 首を振ることもうなずくことも出来ずに固まっていた僕の頭を、神父さんの大きくて暖かい手が、ゆっくりと撫でてくれた。

「見栄張んなよ。ほんとは俺だって恐ぇんだぜ?」
「え?」
「アイツにゃ内緒な。オマエは視えるんだもんなぁ、恐ぇよなぁ……」

 そのときの神父さんの笑顔は、なんだか、泣いているようにも見えて。僕は慌てて神父さんの手を両手で握った。小さな両手では抱え込めないほどの大きな手だ。節くれ立ってかさついた手の感触を、今でもよく覚えている。

「あのね、」
「んー?
「兄さんのこと、ちょっと恐い、けど……。でも大好きだよ!」
「……おう、俺もだ。当たり前のこと言ってんじゃねぇよ馬鹿息子め」

 にひひ、と神父さんは相好を崩して笑った。今度はぐしゃぐしゃと乱暴に頭を掻きまわされる。少し痛かったけれど、神父さんの辛そうな笑顔を見ているよりずっと良くて、僕も笑った。
 そのままでいてくれよ、と小さく聞こえた気がした。僕は聞こえなかった振りをして、心の中でだけ「当たり前のこと言わないでよ」と呟いた。


 火と対を成す僕の名前は、僕をどこへ導くのだろう。
 いざというとき、火の上に覆いかぶさって消すことは出来るのだろうか。あるいは、火に当てられて溶けて消えてしまうのか。
 願わくばいつまでだって隣に立っていられたら良いと思う。
 この先どうなるかはわからない。正直、兄さんがこうして生きて学校に通っていること自体が奇跡だ。
 神父さんが拓いてくれた道だ。険しいのは仕方がない。なんたって兄さんは魔神のこどもなのだから。

 朝目が覚めて、顔を洗って制服を着る。
 この毎日のサイクルが、どれだけ僕たちを守っているのか、まだ兄さんは気づいていない。
 きゅっとネクタイを締める僕の背後で、兄さんはまだパジャマのままベッドの上でだらだらしている。

「……ねみーなー」
「あれだけ寝ておいてよく言えるねそんなこと。さ、行くよ」
「つーかお前はもうちょっと寝た方がいいと思うぞ」
「ご忠告どうも」

 扉を出て行こうとすると、兄さんの慌てる気配が伝わってきた。足は止めずに、振り返らないまま僕は少し笑う。

「ちょ、待てよ雪男!」

 僕はやっぱり、自分の名前があまり好きじゃない。
 けれど、兄さんに名前を呼ばれるのは嫌いじゃない。

 願わくば彼の笑顔を守れますように。
 魔神の力を継ぐ兄さんを、闇の世界へ引きずり込まれないように。今度は僕が、兄さんを守れるだけの、強さを。
作品名:青春生き残りゲーム 作家名:百花