白と黒。(2)
「何故逃げる!」
「あなたが近寄ってくるのが嫌なんです!」
「だから何故だ!」
「どうしてもです!!!!!」
二人の追いかけっこももはや日常茶飯事になりつつあった。はじめは皆が皆、一様に目を丸くしていたがもはや慣れたもので誰一人としてかまいやしなかった。
犬も食わぬなんとやら。お腹いっぱいなだけだ。
今日もビーゼに逃げられたリュシオンは渋面をいっぱいに浮かべながらトパックの傍に降り立った。
「おい、トパック。何度もたずねるがわたしはあの娘に何か悪いことをしたのか?」
真剣に思い悩んでいるのであろう、リュシオンの眉間には深いしわが刻まれてあった。トパックは、なんだかなーと思いつつもリュシオンを傷つかせぬように(そんな代物ではないのだけれど)ビーゼのフォローを入れた。
「いや、ほらビーゼは人見知りが激しいから」
「それだけか? もう何回も顔を合わせているのにいい加減こちらをむいてくれてもいいと思うのだが」
「王族相手に緊張してるのかもしれないし」
「その割にはティバーンが近寄っても逃げたりしない」
それ以前にティバーン相手だと最初から逃げられるはずがないのだろう。おのれの貧弱な翼がまったく嫌になるというものだ。
「うーん、うーん…ビーゼも別にリュシオン王子が嫌いなわけじゃないんだけどなぁ」
トパックはリュシオンの目の前で、腕を組んでうんうんうなりだした。
違う、そうではない。
あの娘が自分に向けているもの。それは憎悪に他ならない。
今まで自分に憎悪が向けられることなんてなかった。そして考えたこともなかった。いつも自分の周りには好感や善意があふれ、たまには独占欲や色めいたことなどあまり気持ちのよい感情ではないものだってあったけれども、あの娘が己にむけるのはただ憎悪。
初めてビーゼと目を合わせたとき、一番先に触れた心がそれだった。
驚いた。
他人の己に向ける憎悪の感情に初めて触れて、リュシオンは驚きとともに恐怖した。
自分の中には綺麗な感情だけがあるわけじゃない。怒りも、悲しみも、誰かを激しく憎んだこともある。森が焼けた夜、初めて生まれた感情を驚きこそすれ、倦むことなどなかった。
だけど今、ひとから憎まれるということを知り、その恐ろしさを知った。
ビーゼの心を感じるたびに胸の奥がずしりと重くなってゆく。ただでさえ、憎悪という感情は【負】の気に他ならず、リュシオンの身体を蝕むのだから。
しかし、それでもリュシオンはビーゼにむかって飛んでゆく。
どうしてか知りたかったからだ。
なぜ己を憎むのかを。
そしてできることならば―――
「王子?」
「―――ん?あ、ああ…トパック」
「ごめんな王子、ビーゼも悪い子じゃないんだ、だけど」
大事な仲間が、リュシオンに失礼なことをしているとトパックはしょんぼりと頭をたれた。その頭にぽん、と手のひらを置く。
「わかっている」
心に触れてわかった。あの娘はただ、他意もなくこの自分が憎いだけなのだから。
追いかけっこも、ずいぶん慣れてきたがビーゼはこちらを警戒し続け、一言も口を聞いてくれはせず、ただひたすら拒絶を繰り返すだけだ。
もうどうしていいかわからない。
さんざん悩み、考えた挙句ついには幼馴染の青年に相談を持ちかけた。彼なら同じ鴉族なこともあり、あの娘のことも何かわかるかもしれないと。
ソファーに身を預け酒杯を傾けながらネサラは言う。
「きっと、あの娘はおまえが綺麗だから嫌なんだと思うぜ」
「わたしが綺麗?」
同じ酒をあおるわけにもいかぬリュシオンのために老僕が整えていった清水に花の蜜をたらした飲み物を、手にしたまま口にもつけていない。
「そりゃあ誰もがうらやむ金の髪、白い肌に翼だ、綺麗だと思うのが普通だろ」
たしかに綺麗だ美しいだと誉めそやされてきたが、別段自分を綺麗だとは思ったこともないし、べつに普通だと思っていた。
「私が綺麗だと仮定して、なぜあの娘は私を―――憎むのだ」
それまで言葉どころか、あったこともないし聞いたこともない。なのにあの娘は会うなり己を憎んでいた。己に落ち度があったのなら改めよう、己がなにか失言したのなら謝罪しよう。
しかし娘は決まって「あなたは悪くない。ただ、わたしが一方的にあなたを嫌っているだけです」と言う。
納得がいかない。余計に納得がいかないのだ。ちゃんとした理由もなく嫌いになられてはこっちだってたまったものではない。
そう訴えるとネサラは眉根を寄せてため息をついた。あまり言いたくはなさそうに考え込んでから、口を開く。
「あの娘はな、ラグズ奴隷だったんだ」
長いこと言いよどんだ後、ぽつりと言った言葉は、すでにリュシオンも知っていたことがらだった。だから彼女はトパックの傍にいたのだし、いまもラグズ奴隷解放同盟の一員なのだ。
「リュシオン、お前はわかっていない」
「わたしの何がわかっていないのだ」
己も一度、目の前の男に売り飛ばされたことだってあるのだ。
「ラグズ奴隷がどんなものであるかをだ」
キルヴァスは誓約にしばられ、ずっと長くベグニオンに近いところにあった。それは国家としての対等な付き合いではなく誓約をたてにした隷属であり、ネサラさえも例外ではなかった。貴族たちと深いかかわりのあるネサラだからこそラグズ奴隷たちの実態をよく知っている。
「……その、過酷な条件化での労働力に使われたりとか……」
「それだけじゃないさ」
ラグズ奴隷はベオクたちにとって、もはや一個の人格を持つひとではなくただのモノを言う動物だ。煮るのも焼くのも主人の意のままであり、それに逆らうことは命を落とすことと同義である。ラグズ奴隷禁止の令がベグニオンで発令されてから表立ってラグズたちが虐げられることはなくなったが、屋敷と言う密閉された空間の中においてその令はなんの意味もなく、さらに苛烈な状況に追い込まれていった。
「きっと、あの娘は地獄を見たに違いない」
キルヴァスの王として、ネサラはビーゼに対して負い目を感じずにはいられないのだろう。
「……………」
リュシオンもまた、ビーゼを思って顔を暗くする。
己の想像もつかない、辛苦にあえいできたであろうビーゼ。
「だけどそれは、私のせいじゃない………」
「ああ、逆恨みもいいところだ。あの娘もそれをわかっているのだろう。それでも平静ではいられないだろうよ。おまえの存在は【正】そのものだからな」
「――――?」
謎かけのようなネサラの物言いにリュシオンは首をひねる。
「わからないか。そうだろうな、お前にはきっとわからない」
「ネサラ」
「だからあの娘は苦しいんだ。それがわからないお前が憎くて仕方がないんだ」