零時前のヒール
「……あ」
「やぁ」
昨日はあまり活躍できなかった……と自省しながら暖簾をくぐると、丁度勘定を終えて席から立とうとしていたらしいいつもの男がイワンにニコリと微笑みかけた。
「ごめんね、今日はもう先に食べちゃったんだ」
「いや、そんな」
いつも別に一緒に食べてるわけじゃなくそちらが勝手にいたり途中からきたりするだけですから……なんて言葉をのみこみ、イワンは曖昧な笑みを浮かべる。
「ちょっと話したいんだけれど、いいかな?」
「はぁ」
話の邪魔になるからであろうか、少し店の外にいくよう提案されたイワンはとりあえず頷き、男を先導するように店を出る。
そして、彼に続いて店を出て扉を閉めた男は入ってくる客が邪魔にならないように脇によると「実はね」と切り出した。
「俺、今から日本に帰るんだよ」
「……そうなんですか、それはおめでとうございます」
なんと返せばよいのかわからなくて適当な棒読みの台詞を喋った後で「しまった」とばかり口を呆けさせる彼にクッと口元を隠して笑いながらも男は続けた。
「そうだね、めでたいねぇ。……それでね、君、今携帯持ってる? 赤外線できるかな。大丈夫アドレス交換じゃないから」
「あ、はい、持ってます」
がさごそとジャンパーのポケットやズボンのポケットをひっくり返してズボンの尻ポケットから携帯を取り出したイワンは、男がいつのまにやら持っていたスマートフォンに携帯向けた。何かが受信され、開くと
「……えっと、このアドレスは?」
「日本の池袋に住んでいる人たちの会員制サイト、ってところかな? 会員制っていっても誰でも簡単に入れるんだけれど。ネット上にしかないから若者が多いけどね。
君なら多分日本語も読めると思うし、あぁ、池袋に住んでる人のっていってもそれ以外の人ももちろんいるから、海外の人たちもね。もしよかったら君もって。あ、前いってたロシア人が経営してる寿司屋の店員もここの会員だしね」
「はぁ……有難うございます……」
いまいち有用性が掴めず戸惑うイワンを放って、男は携帯をコートのポケットに仕舞うと零すように呟いた。
「ねぇ、俺さ、ここにきたとき、友達と喧嘩したからこっちにきたっていったじゃない」
「そうでしたね」
「俺、こっちでも喧嘩したんだよね」
「え」
思わず顔を上げると、男があまりにも自然に笑っていた。
「友達、いなくなっちゃった」
笑って、いるから。