悪魔の囁き
追い込んで、追い込んで、逃げ道を全てふさいで。
活かさず殺さず、追い詰めたところで現れる。
憐れんだフリをして、手を差し伸べて、甘い言葉を囁けば。
人間は簡単に堕ちる。
そんな人間を誑かす悪魔を、人間は憎悪し、嫌悪する。
それでは悪魔を堕とすには、どうすれば良いのか。
虚無界にはない青い空。そんな空と同じ色の眼を持つ末弟と会った。
ただしその眼に空に輝く太陽の様な光はなかったが。
確か末弟くらいの歳の人間はこの時間には『学校』というものに行って、一つの部屋に集まって様々なことを学ぶと聞いた。では、何故、末弟は此処にいるのだろうか。ちなみにここは兄の『学校』の敷地にある木立の下だ。
兄の部屋に居ても何も面白いことがなく、ふらりと外に出たところで末弟に出くわした。袋に入れられた剣を背負って座りこみ、虚空を見つめるその姿は、過去に何度も見たことがある人間の『絶望』しているそれに見えたが違っているようにも見え、不思議なものだと思って声をかけた。
「今は『学校』というものがあるんじゃないんですか?」
「……お前みたいな自由な奴に言われたくない」
思ったことを尋ねれば、この間殺し合いをしたくせにお前こそ何でこんなところにいるんだと睨まれた。それは仕方がない。物質界には自分の住居がないのだから。兄の住まいに邪魔する他はない。それに、そもそも末弟が『学校』というものに行っていれば会うこともなかったはずだ。
「仲間はずれにでもされましたか」
「うるせぇよ」
反応を見る限り図星だったのだろう。不機嫌そうに眉が寄った。
人間と言うのは自らとは異質の者に対し、得てして集団から排除する。その対象が同族であれ何であれ、それは今でも昔でも変わらない。
悪魔の世界は階級社会で、上下の位置づけはあるが排除するという考えはない。階級の差はあるものの、皆同類に変わりない。互いを助けるという考えはないが、人間のように一人を疎外するという考えもない。ある意味虚無界は物質界より秩序が保たれていると思う。
何故、人間は悪魔を嫌悪するのに悪魔ですらしない同族虐げることをするのだろうか。
末弟の場合、人間の同族ではないのだから虐げられるのは当然か。そもそも、そのきっかけを作ったのは他ならぬ自分なのだけれど。
ただし、あくまであの接触はきっかけにしかすぎない。原因は初めからあったのだから、いつかは露見して今と同じ様な状況になっていたことは想像に難くない。
「ふむ。まぁ、何でも良いです。今日は遊び、もとい戦うつもりはありません」
「そうじゃなきゃ叩き斬ってやる」
尊大に鼻を鳴らして見下された。こちらの方が兄なのに傲慢な弟だ。兄にちょっかいを出すことを禁じられていることもあるが、戦わずにこうやって話すだけでも面白い。
さて、これから何を話そうか。いざ話そうと思うと何から話せば良いのか分からない。しかし、このように話す機会が次はいつあるのか分からないのだから何か話さなければ。
こちらが話しかけたところで答えてくれるのかどうかは分からないが。
「今日は空が青いですね」
「……そうだな」
「お腹が減りました」
「食い物なんかねぇよ」
思いのほか会話が続く。そのことに満足しながら、尋ねようと思っていたことを思い出した。
「聞き忘れていましたが、虚無界へ来ませんか?」
「…………」
末弟は答えない。それでも良かった。
「悪魔しかいませんが君を傷つけることはない」
そもそも末弟は至高の青の持ち主だ。この世でたった二つきりのあの青を思い出すと、今でも身体の芯から興奮と歓喜が湧き上がり、仮初の身体なのに血が滾る。
「醜悪な言葉も言わないし、憎悪の目で見ることもない」
あの時の人間達の顔はなかなか見物だった。ほんの数瞬前まで浮かべていた心配や保護欲と言ったものが青い炎を見た途端に霧散したのだから。その後、末弟と彼らの間で何があったのかは知らないが、末弟の様子を見ただけで大体は予想できる。
きっと自分に向けられていた眼と同じものを向けられたのだろう。
「皆、君を待っている。必要としている」
青焔魔の後継者。誰もが焦がれる青の炎を持つ者を、一体どれだけの者が待ち望んでいたことか。
「君を傷つけるばかりのこの世界に君が傷ついて守るほどの価値はないと思います」
その言葉に末弟の肩がぴくりと揺れた。
「人間が言う『愛』というものは分かりませんが、君がこの世界に抱く『愛』に応えてくれる世界ではないということは分かります」
悪魔に人間の感情は分からない。その中でも人間にとって最も大切らしい『愛』というものは人間より遥かに永い時を生きてみても、その片鱗すら掴めた気がしない。
それでも分かることはある。
末弟はこの世界を、自らに関わる人間を、その身をかけて守っていること。
そして、世界は、人間は、彼を傷つけてばかりだということ。
「ねぇ、燐。人間は悪魔より醜い」
同族同士で争い、傷つけ、同じ過ちを繰り返す。
裏切りを常とし、それにすら『正義』と名を付け当然のこととする。
悪魔は知っている。自身の醜さを、醜悪さを、狡猾さを。
自らの醜悪さを自覚しないまま他者を罵る人間は、悪魔よりも醜い。
「そんなモノの為に、君は傷つかなくていいんです」
その青い眼に光がないのは、嫌だ。
「……これが本当の悪魔の囁きってやつか?」
「そうですね」
優しく甘い言葉の中身は、相手を堕とす為の下心で満ちている。隠す気がない下心を下心と言うのかは分からないが。
「行くんですか」
すくっと立った燐を見上げると青い双眸が向けられた。青の中には光があった。
「お前がそう言うから、俺はこの世界を捨てない」
強い強い青。炎のように、揺らめいたように見えたのは気のせいではないはずだ。
「傷つきたい訳じゃない。恨まれたい訳でもない。でも、悪魔のお前がそんな風に、甘い言葉を言う限り、悪魔が俺を唆しているって思う限り」
真っ白な手が握り締められる。力が篭っているのだろう、ただでさえ白い手がさらに白くなる。その肌には赤い血と青い炎が一層映えるだろうと思った。
「俺はまだ、堕ちていないって思うから」
悪魔が甘い囁きをするのは、自らがまだ、そちらに堕ちていない証。
「礼を言うぜ。お前のおかげで俺はまだ戦える」
にやりとした笑みを浮かべた顔。不遜な笑みを浮かべてい癖にその輪郭はひどく曖昧で、彼の背から射す陽の光に溶けているように見えた。こちらに背を向けて歩き出す燐の背中をじっと見つめながら、小さく呟く。
「馬鹿ですね」
目を閉じても陽の光が瞼を貫く。それはまるで、先ほどの笑顔のようで。
「堕ちてくれば楽なのに」
悪魔の甘い言葉すら不敵な笑みの前では意味を持たず、礼まで言われて跳ね返される。
「君を堕とすには、どうすれば良いんでしょうね。燐」
――悪魔すら翻弄する青色は、悪魔よりも悪魔らしい。