遠い未来にて
気がつくと、レスQが、眠っている。
三日前、『お前に、マフラー編んでやるよ!』と宣言した彼女は、ついさっきもソファに収まって熱心に毛糸と格闘していたのだが、目の前の暖炉の温かさに、うっかり気を許してしまったらしい。
糸が掛かったままの編み棒を取り落とし、ソファの柔らかい部分に体をゆだね、静かに、寝息を立てている。
愛しい。
彼女は、起きている時も凛々しく美しく魅力的だが、眠ってしまうと、起きている時に発散している意志のオーラが消え、ほほえましい愛らしさが溢れてくる。
私は、彼女の周りに落ちている、編み地や毛糸玉を片づけ始めた。
編み地を手に取る。
まだ正方形くらいにしか進んでいないその作品の編み目は、はっきりいって不揃いだが、そこにまた、彼女の手の温もりを感じることができて、すばらしい。
毛糸玉に目をやる。
ふわふわと柔らかそうな毛糸の玉が、編み地につながって、三色ばかりころがっている。
この軽く温かそうな糸のチョイス、私のことを思って選んでくれただろう配色の妙、さすがはレスQだ……。
そう思いながら、毛糸玉を拾い上げた瞬間、胸を突かれるような気持ちが、私を襲った。
私は、ひどく狼狽した。
これは……私が、誰かを愛した記憶?
しかし、覚えがない。感覚的には、手で触れそうなほどはっきり感じられたというのに、具体的な事柄は、何一つ浮かばない。
既視感(デジャブ)……という言葉を、私は、即座に打ち消した。
なぜか、その類のモノではないという確信があった。
しばらく頭をめぐらせた挙げ句、私は、事柄を思い出すのを諦めた。
その代わり、抱き上げた毛糸玉から受け取る感覚に、意識を集中させた。
柔らかい、いとおしい……確かに私は、この感覚を知っている……ただ、ひどく昔のことのように感じる……甘酸っぱい懐かしさが、胸に広がる……。
思いついて残りの二玉も拾い上げてみると、喜びの感情が大きく膨れ上がって、私は、再び驚いた。
私が、かつて愛していたというのか……?!毛糸玉の、集まりを。
いや違う、と、私は一人、かぶりを降った。
かつて私が愛したらしいそれら(・・・)は、暖かかった。体温があった。そして、感情が、あった。
毛糸玉は、たまたま、触り心地が似ていたに過ぎない。
それでも、私が受けた衝撃は、変らなかった。
生物か無生物か、昔か今か、という問題ではなかった。
私は、自分がレスQ以外の何か(・・)を深く愛したかもしれないという認識に、打ちのめされた。
……しかし、ほどなくして、私は、覚悟を決めた。
過去のこととはいえ、このような中途半端な状態は私の望むところではないし、もちろん、レスQにも悪い。
できうる限り思い出してみようではないか……それら(・・・)のことを。
私は、レスQが眠っていることに感謝をしつつ、それでも、彼女がふと目を覚ました時に毛糸玉を愛でる自分の姿を見られぬよう物陰に隠れ、再び、意識を集中した。
やはり、私は……覚えている……胸の奥から突き上げてくるようなその歓び、その想い。
心の襞に、刻みこんだように、気持ちの跡が残っている。
私はさらに細かく、『想い』を解体していく。
その手触りはあくまで柔らかくしなやかで、驚くほど頑固かと思えば無防備に甘え、気まぐれで、愛らしく、微笑ましく、なにより力強い気高さにあふれたあの眼差し……。
そこまで考えて、私はふと、顔を上げた。
それは、まさしく、レスQのことではないか?
私は、編み地や毛糸玉をバスケットの中に片付け、気持ち良さげに眠っている、レスQの前に立った。
優しく……レスQを起こさぬよう、あくまで優しく、彼女の髪を撫でる。
やはり。
毛糸玉などより、はるかに近い『その』感じ。
「ふむ」
私は、頷いた。
前世ーーーという言葉を、思い出していたのだ。
私は、前世でも、レスQを深く愛していたのではないのだろうか。
その強い想いが、現世の私の心の襞にも、気持ちの跡を残したのではないだろうか。
これは、仮説……証明のしようもない、ただの推測に過ぎないが……。
私は、恐らく、私でない時も、レスQであるものを愛していた。
その結論に、私は、安心した。
その、『レスQであるもの』が複数らしいのが少々気になるところだが、単数か複数かというところは、この際、大した問題ではない。
とにかく、私は、彼女を裏切ったわけではなかったのだ。
胸を撫で下ろした私は、手に取ったレスQの髪の一房に口づけると、彼女に掛ける毛布を取りに、寝室へ向った。