遠雷
夕暮れ時、多少の雲はかかっているものの、まず良好な夕焼けが見られるだろうと思っていたのも束の間。
見る間に広がった低い雲が、西から徐々に薄紅く染まりかけた空を覆ってしまった。
「雲が出てきたな」
「降りますかね、雨」
「怪しいな」
気分転換に散歩でも、と誘ったのはエーリッヒ。
二人とも他チームのデータとの格闘に根を詰めていたので、シュミットに気分転換を勧めるついでに自分も、と思っていた。
当てが外れた。
やがて、数分もしないうちに、自分達の頭上にまで拡大した雲は、ぽつりぽつりと雫を落とし始めた。
「すみません」
廂の下に逃げ込んで、少しだけ濡れてしまった黒い前髪を見つめながら謝ると、
「何がだ?」
シュミットは、はたはたと肩の雫を払いながら答えてくる。
濡れた髪もきれいだな、なんていう感想はとりあえず、心の中だけに留めておくことにする。
謝るのが先だ、と、思ったから。
気分転換どころか、かえってシュミットを煩わせてしまったかもしれない。
「わざわざ出たのに、雨が」
「……これはお前が降らせたのか?」
「いえ、さすがにそれは」
「だったら謝る必要はないな」
ふんと腕を組んで顎をあげる顔が、実はとても優しい。
「………はい」
こんな返事が来るだろうことは、実は何となく予想していた。
絶対にエーリッヒを責めない優しさは、たぶん他人にはわかりにくいものだが。
小さく微笑むと、シュミットも口元を緩めた。
夕焼けの色には出会えなかったが、ささやかな時間が幸福に満ちて、ならばこれでよかったと思う。
西の空に、なんとはなしに目を向けると、
「あ、」
つられて隣のシュミットも顔をそちらへ向ける気配。
薄暗い灰色の空が、一瞬だけ光に照らされた。
明滅はほんの一瞬。
数秒遅れて空の唸りのような音。
「まだ随分遠くですね」
音が随分遠いですから、行って横を見れば、シュミットが眉を顰めていた。
そういえば、雷はあまり得意ではなかったか。
けたたましい音をなりたてるのが品がない、などというようなことを随分小さい頃に言っていたような。
その頃はやせ我慢がいかにもやせ我慢で、苦手なのとは違う、品がないから好きになれないだけだと必死に周りに取り繕っていたのだったか。
月日が経って多少の成長はして、それでも、幼い頃からの習いが簡単に消えるわけではない。
「戻りますか?」
言いながら、小さく微笑んでしまったのが気に障ったのかもしれない。
「別に、いい」
「でも、雨も酷くなりそうですし」
雨も雷も好きなミハエルとは違って、シュミットは天候に煩わされるのが大嫌いなはずだ。
基本的に何があろうと自分のペースを揺るぎなく保つことのできるシュミットだが、自分の行動その他諸々を、何ものかに揺るがされようとすること自体が許せないらしい。
品のない音によって、快適な精神状態と自由な行動が妨げられる。
まさにシュミットの嫌いなもの。
だから戻ろうと提案したわけだが、
「雷ごときに、妨げられてたまるか」
「はい?」
「お前と二人の、貴重な時間を」
そう来るとは思っていなかった。
嬉しいのだが。
「だから、息抜きの散歩は続行だ」
散歩と言っても見る間に雨足は強くなり、ふらふらと歩き回るわけにはいかなくなってしまった。
ただ、廂の下にとどまって、暗い空を見上げるしかない。
さてどうするかと考えあぐねたところに、
「あ、」
ぴかりと、鋭く走る空の一筋。
灰色の雲を浮かび上がらせるように激しい瞬間の光は、消えてしまった後にも目にジグザグと不規則に伸ばした筋を焼き付ける。
音はない。
まだまだ遠く、遥かに向こう。
「きれい、ですね?」
質問口調になったのは、音が気に食わないだけだというシュミットが、もしかして音無しの光だけでも駄目なのだろうかと心配になったから。
「……光だけなら、見れないこともない」
腕を組んだシュミットが睨み付けるように空を見上げて、それから少し、眉間の力を和らげた。
返る答えにほっとする。
シュミットが気分を害したわけではなさそうなこと、それから、
「じゃあ、もう少しここで?」
「だから、そう言っているだろう」
「……はい」
それから、雷への嫌悪よりも、自分との二人の時間を選んでくれたこと。
光の筋は、不規則に無秩序に、しかし瞬間の軌跡を鮮やかに映して空に走る。
「きれい、ですね」
「そうだな」
「…濡れた、貴方の髪もきれいですけど」
「お前の瞳には敵わないけどな」
「………」
「……お前から仕掛けておいて、照れるな」
「すみません」
口元を片手で覆って、赤くなる顔をやり過ごす。
欠片も照れもせずに、シュミットは顔を傾けて呆れ笑い。
幼いころの苦手を握っている程度では、やはりこのひとには敵わないと、近付く顔に目を閉じながら考えた。
2011.10.2