FATE×Dies Irae 1話-5
士郎はまろぶように玄関をくぐるや、学生鞄を無造作に投げ捨て、大の字に床の上に寝転がった。閑寂と夜闇に沈む衛宮邸に、士郎の荒い呼気が薄らとさざなみを立てる。
肺は噎せるほどに焼けついて、肌はぐっしょりと汗に濡れていた。
だが、全力疾走の余韻に火照る身体とは裏腹に、士郎の心胆は冷たい怖気に震えていた。
脳裏を占めるのは、校庭で目のあたりにした悪夢じみた光景。
およそ現実感の無い、さながら子どもの空想じみたでたらめ極まる超常の戦い。
「何なんだよあれは……!」
胸中から恐怖と動揺を吐き出すように、士郎は押し殺した声で呻き、
「――それはあなたが知る必要のないことです」
「!?」
あるはずのない応えにぎょっと目を剥く。
士郎は跳び起きざまに身を捻り――半ば反射じみたその反応が、結果として彼の命を繋ぎとめた。
振り下ろされた鉄槌のごとき拳打が、派手な音を立てて床板をぶち抜いた。
反応がほんの一瞬でも遅れていたら、今頃士郎の頭は床板ごと粉砕されていたことだろう。
屋敷中に鳴子の音が鳴り響く。屋敷に張られた結界が、今更になって侵入者の存在を訴える。
慌てて体勢を立て直し、襲撃者と対峙する士郎。
「おや、仕損じましたか? いやはや、只人にしては実に良い反応です。しかし困りましたね。せっかく苦しまないよう、ひとおもいに殺してさしあげようと思ったのですが」
「お前は――!?」
蒼褪め絶句する士郎に対し、襲撃者たる神父は悠然とした物腰を崩さないまま困った様子で溜息をつき、
「その様子ではやはり先の一幕を見てしまわれたようですね。で、あれば是非もない。目撃者は始末しろ、というのが我がマスターの命令です。ゆえに――」
「!」
みなまで聞かず、士郎は踵を返して駆けだした。震える足に喝を入れ、脱兎のごとく遁走する。
目の前の神父が化け物じみた存在であることは先刻承知だ。
逃げるにしろ立ち向かうにしろ、正面きってぶつかるのはあまりに無謀だった。
「逃げますか。ええ、構いませんとも。せいぜい足掻くとよろしい。ですが先達として忠告をさせていただくのであれば、逃げた先には所詮ロクなものなどありませんよ」
神父は遠ざかる背中に穏やかな笑みを送りながら、悠揚たる足取りで士郎の後を追いかけた。
◆◆◆
「――はてさて、これはどうしたものか」
耳朶を撫でたその声が、朦朧とついえかけていた彼女の意識を危ういところで繋ぎとめた。
死を前にして冷たく凍える身体の中で、左の腕だけが異様なまでの熱を孕んでいる。
「アベンジャー……第三次聖杯戦争の折、アインツベルンによって生み出された八番目のクラス。存在自体は把握していたが、よもや七人という枠を壊し,強引に自らを捻じ込んでこようとは……。しかし嘆かわしいかな。それすらも既知の内とは」
独りごつ声は何かを嘆くようでありながら、その実、圧倒的な諦念を前にハナ(最初)から擦り切れ渇いている。
「それはさておき、ふむ……。尻馬に乗せてもらっている手前パトロン(聖杯)の意向は出来得る限り尊重したいところだが……しかし、こればかりは承服しかねるな。さもありなん。繰り返しなど、この私が認めるものか。ゆえ、貴君を舞台に上げるわけには行かぬな、アンリ・マユ」
声の主は低く、暗く、皮肉げに嗤う。
「とはいえ、せっかくのイレギュラー。みすみす使わずにおく手も無し。それに役者が多いほうが舞台も映えるというものだ。で、あればここは代役を立てるのが吉か。順当にいって適役はクリストフの闖入で役を追われた彼の英傑だが……しかし惜しむらくかな、我らが北欧の英雄にこのクラスの適性は見受けられぬ。では新たに別の英雄を招くか……。確かにそれも一興だが……やはりここは素直に彼らを据えるのが適当か。少々内輪に偏りすぎる感もあるが、配役としては、まあ順当かつ面白い。それに、前回のオペラではろくに出番を用意してやれなかったしな。じきに愚息たちも舞台に上がる。サプライズの一つ、用意しておくのもよかろう。――ああ、そういうわけだ魔術師殿。貴殿には今しばらくこの舞台にて演じる栄誉を授けよう。光栄に思いたまえ。女神の再誕を言祝ぐ舞台装置……これ以上の誉れはあるまいよ」
その言葉を最後に気配が消える。
――そこまでが限界だった。
バゼット・フラガ・マクレミッツの意識は深い闇の底へと堕ちていった。
◆◆◆
両腕を交差し、全力で背後へと跳び退る。
瞬間、無造作に繰り出された回し蹴りが、士郎の身体を容赦なく打ち据えた。
「――っ!?」
受けとめた両腕が軋んだ悲鳴を上げ、殺しきれなかった衝撃が防御を突き抜け内臓を痛打する。
宙を舞った士郎の身体は土蔵の扉をぶち破り、室内に散乱した雑貨を蹴散らしながら無様に床を転げた。
強かに壁に背をぶつけ、ようやく止まる。
視界が陰る。ぐったりと壁にもたれ悶絶する士郎の正面。入り口から差し込む月明りを遮り、漆黒の長躯が屋内に歩を踏み入れる。
「どうやら鬼ごっこもここまでのようですね。いやはや、それにしても大したものです。弱卒とはいえ、まがりなりにも英霊たる私を相手にここまで粘るとは」
「……っ!」
奥歯を噛みしめ、呻き声を押し殺す。
激痛に蹂躙された肉体は小刻みに震えるばかりで、立ちあがることすらままならない。
「さて、名残惜しくはありますがそろそろ幕に致しましょう。いい加減主も痺れを切らしているようですし、ここらが潮時といったところでしょう。何、恐れることはありません。あなたもいずれ、必ず私が救ってみせます。ゆえ、どうぞ心静かにお逝きなさい」
神父は慈愛に満ちた微笑を浮かべ、おもむろに士郎のもとへと歩を進める。
死ぬ? こんなところで? 訳も分からぬまま、何も為せないまま?
「――――けるな……!」
正義の味方にもなれず、じいさんとの約束も、あの日の誓いも果たせずに?
「ふざけるなぁああああああああ!」
その時、蒼く清澄な輝きが屋内を染め上げた。
床に描かれた魔方陣――士郎がいつも魔術の鍛錬に用いているそれ――が、眩い輝きを放つ。
「なっ……!?」
「これは……!」
士郎と神父が揃って瞠目する中、これまで感じたこともないほどの破格の魔力が魔方陣へと集い――
「くっ……!」
光が弾ける。
目を灼くほどに膨れ上がった閃光を前に、咄嗟に目を閉じる士郎。
瞼越しに光が収まったのを見てとり、おそるおそる目を開けば、そこには銀の甲冑に身をつつんだ背中が、神父から士郎を守るように凛然と佇んでいた。
うなじで結われた長い金髪。華奢な体躯。
凛々しくも美しいその少女は、呆然と息を呑む士郎を肩越しに一瞥し、
「我が名はセイバー。――問おう。あなたが私のマスターか?」
――今宵、冬木の街に最後のサーヴァントが現界を果たした。
作品名:FATE×Dies Irae 1話-5 作家名:真砂