水底にて君を想う 波音【0】
バベルの屋上。
夕日が街を照らしている。
少年が一人、膝を抱えている。
「どうしたんだい?」
その小さな背中に声をかけられる。
ビクッと震える。
小さな背中がますます小さくなる。
「……ケンカでもしたのかな?賢木修二君」
名前を呼ばれて少年、賢木は振り返る。
学生服に、白、銀髪の青年が立っている。
見覚えがあった。
「この間は水をありがと」
「つかまったんじゃ、ないの?」
青年は肩を竦める。
「不二子さんとは姉弟みたいなものでね」
「そうなんだ」
不二子、というのがあの巨乳のお姉さんなのか、と賢木は思い出す。
触れた時に透視えたけれど、やっぱり、仲が良いのだと、納得する。
この青年のことを教えたとき、不二子から透視えたのは、怒りだけではなかった。
まだ幼い賢木には理解しがたい複雑な感情。
しかし、その中に確かに温かなものがあった。
賢木の横に青年が座る。
「誰に殴られたの?」
「……」
青年の手が、賢木の腫れた右頬に触れる。
健康な褐色の肌と病的な白い肌。
(冷たい手だなぁ。氷みたい)
賢木はぼんやりと思う。
と、青年がクスと笑う。
「ゴメンね、冷たかったかい」
賢木は驚いて、目を瞬く。
「お兄さんも?」
「そうだよ、修二君」
「ホント?」
「ホントだよ。……君を殴った人も解ったよ」
言われて、賢木の大きな瞳が揺れる。
「ボクが悪いんだ。みちゃいけないって言われてたのに」
鬼のような形相で、手を上げたのは母親だ。
賢木は唇を噛む。
「そう。まだ君は自分の能力を上手くコントロール出来ないんだね」
コクリと頷く賢木。
その頭を青年の手が優しく撫でる。
「リミッターが効かなくて」
「……まだ君の能力は安定してないんだ。日に日に強くなっていくから、リミッターが合わないんだよ」
賢木は青年の声に耳を向ける。
「そうだね、超度6くらいはいくかな」
「そんなに!?」
驚いて声を上げ、同時に絶望的な気分に襲われる。
今でさえ、母にあれほど嫌われているのに、これ以上強くなったら……。
賢木は知らず、青年の服の裾を握り締める。
「……まったく、普通人は」
ポツリ、と呟く青年。
その声があまりに冷たい。
賢木の手が震える。
「フフ、ごめん、ごめん」
青年は笑うと、賢木の肩を叩く。
「後天的な精神感応系、君みたいなサイコメトラーはこれから辛い目に合うよ」
「辛い目……」
「いかに人の上っ面が信用できないか。いかに人の言葉は当てにならないか」
一度、言葉を切る。
「いかに普通人共が醜いか」
風が二人の間を流れていく。
賢木は言葉もなく青年を見つめる。
美しい横顔。
どこか、遠くを見ているような表情。
この人も『辛い目』に合ってきたのだろうか、賢木はそんなことを思う。
「そうだ」
青年はニコリと笑うと賢木の手をとる。
「なに?」
「海に行こう」
「え?」
風景が跳んだ。
目の前には海が広がっている。
「すっげー」
思わず目を見張る賢木。
沈みきる前の夕陽は大きく、海を染めていく。
「いい風景だろ」
「うん」
無邪気に応える賢木に青年の瞳は優しい。
「……一つ覚えておくといい」
「?」
「人間は誰でもね、心の奥に意識という海を持っているんだよ」
波音が、響く。
「良い事も、悪い事も」
青年は自分の胸に手をやる。
「底にと沈んでいく」
「底に……?」
不思議そうな顔をしている賢木に青年は微笑む。
「いいかい。一番大事なものはその底に沈めてしまうんだ」
青年は膝を折り、賢木と目線を合わせる。
「そして、忘れるんだよ」
「一番大事なことを?」
「そう。そうしないと……」
賢木の手に青年の手が重なる。
「僕達は守れない」
「守る……誰から?」
「他人からだよ」
手から、初めて青年の思考が流れてくる。
(ホラ、こうやって他人は僕達の心を汚してくる)
(汚す?)
意識せずに心で答える賢木。
(そうさ、覚えがあるだろう?)
(……うん)
何もしていないのに、まるで化け物でも見るような人達の顔が浮かぶ。
触れれば、謂れの無い言葉に傷付く。
(だから、深く深く、深く沈めてしまうんだ。せめてそれだけでも守れるように)
青年の手が離れる。
「分かった?」
この人もそうして、一番大事なことを沈めて忘れているのだろうか。
賢木はじっと見つめると、頷いてみせる。
そんな賢木に青年は殊更優しく微笑んでみせる。
「でも、浮いてきちゃわない?」
「その時はまた沈めるんだ。ここから音が聞こえるからね」
青年はそう言いながら、胸をトンと叩く。
「音?」
「そう、最初は聞き取れないほど微かに、やがて大きくなってくる」
賢木は自分の胸に手を当ててみる。
何も聞こえてはこない。
「その内分かるよ。そしたら、また沈めて、忘れればいい」
「……やってみる」
「いい子だ」
さて、と青年は賢木の手をとる。
「日が落ちたね。帰ろうか」
「うん!」
波音が響いていた。
「あーあの頃は可愛かったのになぁ」
「なんの話です?」
青年、あの頃と寸分違わない姿をした兵部京介は、窓の外を眺めながら呟く。
すでに、十年以上の年月が経過している。
運転をしていた黒髪の男は、怪訝そうな視線を助手席の兵部に向ける。
「ほら、賢木っていう医者」
「ああ……あの。いつ会ったんです?」
「十年位、あれ、もっと前かな。ほら、不二子さんに捕まった辺りだよ。真木が助けにこようとして失敗したろ」
「そ、それは」
黒髪の男、真木はその時のことを思い出して言いよどむ。
まさか、色香に手も足も出なかったとは言い難い。
「不二子さんが寝てからは、ちょくちょく抜け出してたから」
その時にね、と言葉が続く。
「……しかし、覚えていない様子でしたが」
「ああ、催眠で忘れさせたからね」
「何故そんなことを。勧誘したのではないのですか?」
「んー、その気はあったんだけど、これ以上手のかかる子供増やしたらお前が困ると思って」
真木の眉間の皺が深くなる。
捕まっといてよく言う、と喉まで出そうになった言葉を押し込む。
「お心遣い感謝します」
「嫌味かい?」
兵部がクスと笑う。
「……不二子さんに告げ口されたら困るなって、後から思いついてね」
「はあ」
「そうだな、今度誘ってみようか。こっちにこないかって」
真木の頭に賢木の顔が浮かぶ。
敵意に満ちた瞳だ。
「その……無理なのでは?」
「そうだな」
「少佐?」
その真意を測りかね、真木は兵部の方を伺う。
「久しぶりの日本だ。薫たちは元気かな」
その瞳は流れる風景へと注がれている。
「言ってはなんですが、彼女達が元気でない所が想像できません」
「確かに。あの坊やも相変わらずだろう」
兵部の口元が僅かに笑みの形を作る。
気の毒に。
真木は内心思う。
普通人のことは真木だとて、憎い。
だが、正直に言えばあの皆本という男には同情する。
小生意気なチルドレンにこの兵部。
同じ世話係として胃が痛くなる思いだ。
「楽しみだな」
心底楽しそうに兵部は笑った。
作品名:水底にて君を想う 波音【0】 作家名:ウサウサ