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死への耐性

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男は、毎夜、死ぬ練習をしている。何も感じず、触れず、言えず、理解も出来ない。夢など見ようはずもない。瞳孔は収縮し、心拍数は減り、呼吸は緩くなる。そのまま、あとほんの少し手を伸ばせば、背中を押されれば、向こう側へいける。すべてが停止し、取り返しのつかないことになる。なのに、いつもその一歩手前で、夜が明ける。男の意識は、男の身体に戻ってくる。睡眠という仮初めの死から目覚め、自分の身体が、まだ、自分の意思で何ひとつ不自由なく動かせることを確認する度に、男はどこか落胆にも似た感情を味わった。しかし同時に、安堵もしている。男は、己の屍は残さないと決めているからだ。己の身体がここに在る以上、戻ってこなければならない。もし、練習ではなく本番が来ると事前に知ることが出来たならば、屋敷に火を放ってから眠りたいものだ、と、男は考えている。
男の屋敷は、決して広くは無い。滞った時間の澱の中に置き去りにされ、じっと蹲っているかのような、古びた屋敷だった。男の他には侍女の一人もおらず、人の生活がもたらすあたたかみは、ほとんど感じられなかった。むしろ拒絶するかのように、冷淡な佇まいだった。早朝の空気は静寂に固められ、少しでも乱暴に振舞えば、罅が入って粉々に砕けてしまいそうだった。男はゆっくりと起き上がり、鷹揚な動作で、身なりを整えた。そして、庭へと続く襖を開ける。さらさらとした、細かな砂を敷き詰めたような白い地面に、細い植木が何本か生えているだけの、簡素な庭だった。外は風が無く、うっすらと靄が立ちこめ、朝陽を拡散させていた。一日の内で、この時にしか見られない風景だ。男が何もせずとも、やがては消える風景。しかし、明日の朝も同じように現れる。男は、その空虚な繰り返しが、嫌いではなかった。太陽は徐々に昇り、光は強さを増していく。白いばかりだった空は蒼く色づき始め、薄れていく靄の中から雀の鳴き声と、微かなはばたきが聞こえた。男は部屋の隅にある箪笥に歩み寄ると、一番上の引出しを開け、黒塗りの小さな箱を取り出した。蓋を開けて持ち、再び縁側へ向かう。目を凝らさずとも、庭に降り立ち、跳ねる何羽かの雀の姿が見えた。それに目をやったまま、男は今日初めて口を開いた。
「風魔」
その音の余韻が消えぬうちに、庭の中心、男の向かいに人影が現れた。男が最近雇った忍だ。突然のことにも関わらず、そこにいる雀は一羽たりとも飛び立たず、忍を見上げもしなかった。今、この世界で風魔を認識しているのは、男だけだった。
「奥州の国境を護っている門があるだろう。……今日は、そこの物見をしてきてくれたまえ」
男は、言いながら手元の箱から何かをひと掴み取り出し、庭に撒いた。雀が寄ってきて、米粒のように見えるそれを、小さな嘴でついばんだ。
「以前から独眼竜に興味はあったが、そろそろ噂だけでは物足りなくなってきたのでね。……まずは卿に見てきてもらうとしよう」
「……………」
男の言葉はまるで独白のように、靄に溶けていった。忍の方も、微動だにせず、男の話を聞いているのかどうかも、傍目では分からなかった。男は何度か箱の中身を庭に撒き、それからようやく忍に目をやった。
「……これは私の日課なのだよ。毎朝、こうして変わらず庭にやってくる。たとえ前日に何が起ころうともね」
「…………」
「可愛らしいものだろう?」
目を細め、男の唇が微笑んだ。忍は答えなかった。
暫しの沈黙の後、男は背を向け、箱を箪笥に仕舞った。そして振り返らず、屋敷の奥へ去って行った。その後ろ姿を追うように、日差しが畳の上を伸びてゆく。
「…………」
日差しに照らされ、庭の靄は、名残すら残さずに晴れかかっていた。ただでさえ利く忍の視界が更に鮮明になってゆく中で、彼はふと、自身の脚元を見た。そこにはやはり、雀がいた。細い足が伸びきり、翼が中途半端に開き、瞼を硬く閉じた雀が、地面に埋もれるようにして、何羽も転がっていた。それらの間に、食べ残しの、男が撒いた白い粒が、点々としている。
不意に風が吹き、地表から何かを巻き上げた。それは砂ではなく、灰だった。雀たちが埋もれているのは、砂ではなく、灰の庭だった。
「…………」
忍は、もう動かない羽毛の塊たちを一瞥すると、吹いた風に乗って姿を消した。雀と一緒に焼かれる前に、気配も残さず飛び去った。
作品名:死への耐性 作家名:ひょっこ