ほんとうの痛み
喧嘩に怪我はつきものだ。痛みなんてものは、慶次にとっては些細なことだった。高揚と満足感によって、簡単に上書きしてしまえる程度のものだった。あの手を知るまでは、そうだった。
大きな掌が、特別な生き物のようにひるがえった。振り上げられたその一瞬に、身動きする暇も無く、慶次はその手にぶたれていた。視界が揺れ、斬りつけられたような鋭い痛みが、神経を打った。
何が起きたのか、瞬時には把握できなかった。それまで抱いていた焦りや怒りすら、忘れかけた。慶次は反射的に目前の男を見据えたが、そこからは瞬きひとつ、出来なかった。
男は興奮してはいなかった。先ほど慶次を打ったはずの手は、既に仕舞われて動きを止めており、何事も無かったかのように振舞っている。いや、本当に、何事も無かったのかもしれなかった――この男にとっては。男の眼はしんと静まり返り、口元には笑みさえ浮かんでいた。慶次は、こんな表情で誰かを殴る人間を、見たことが無かった。打たれた頬が痺れている。純粋すぎる痛みだった。高揚も満足も容赦も無い、ただ相手を傷つけることだけを目的とした、混じりけのない痛み。慶次は初めて、痛みというものを味わった気がした。皮下組織や筋肉を通じて骨の奥まで侵食し、じくじくと痛む。手の甲でいくら拭っても、こびりついて離れない。
「少年」
男が、慶次を見下ろす。
「痛むかね…?」
労わりの欠片も無い低音が、慶次の鼓膜を撫でた。
+++
「慶次!」
この声を聞くと、帰って来たなあ、という感じがする。その声色が甘い響きではなく、激しい怒号だとしても、慶次にとっては昔から変わらない風景の一部だ。慣れというものはつくづく不思議である。
「慶次! 今度はどこに迷惑を掛けてきたのですか!」
「まつ姉ちゃん…別に迷惑って決めつけなくても、」
「その顔を見れば分かります。またそんなに怪我をして!」
こちらへいらっしゃい、と促される。問答無用なのは分かっているので、慶次は素直に従う。大したことはないと何度も言っているのだが、帰ってくると毎回この流れになってしまう。
「ほら、手当をしますよ」
まつの指先が、慶次の頬に触れる。やさしい手だ。慶次を心から案じ、癒そうとする手だ。何てことはない、いつもの喧嘩と、掠り傷。傷はすぐ塞がって、痕も残らないだろう。だが、彼女の触れる頬、その皮膚の下には、過去に与えられた本当の痛みが、未だに疼いている。それは刻印のように慶次の中に残り続け、薄まる気配すら、見せようとはしないのだった。