君の名はあかね
遥か中国より日本に帰国して、親父の親友って人の家に居候に来た初日、
頬に真っ赤な手形を付けられ、なおかつ頬を腫らしながら、俺はぶつくさと文句を言っていた。
中国で修行をしていたのに、何故か急に、日本に帰ると言い出した親父。
しかも、勝手に俺の「許婚」を作っていて、更にそいつの家に居候をするという。
人の気持ちを無視したその「婚約」、俺は勿論、気に食わない。
結婚すれば道場を継げるとか、無差別格闘流を繁栄させる為とか、そういう問題以前の問題だ。
「…」
全く、一体なんだって言うんだ。俺は、どうにもこうにも、気が治まらない。
しかも、だ。
許婚にさせられるその相手、初めは「ちょっと可愛いかな」なんて…親切にしてくれたせいもあってそう思ったのに、
俺が中国・呪泉郷での修行の最中の事故で「水を被ると女になる」という体質になったこと…つまり、女の姿で道場に現れたけれど、本当は「男」なん だ、とわかった瞬間。
その女、手のひらを返したように、俺への態度を変えやがった。
「仲良くしようね」
そんなことを言って微笑んだあの仕草はどこへ行った?まさに、前言撤回だ。
親父が俺に「許婚」とした女は、はねっかえりで凶暴で、気が強くて頑固で、全然素直じゃねえ女だった。
「…」
俺は、そのときのことを思い出して、更に機嫌を悪くする。
…だいたい、だ。
初対面の男にこんな、顔に後が付くほど思いっきりぶん殴るか?普通。
そりゃあ、ちょっとした「アクシデント」というか、風呂で裸で鉢合わせしちまったから、怒りたい気持ちは分からなくもねえけどさ。
でも、裸を見られたのは俺も一緒なのに、この仕打ちと来たもんだ。
「…」
なんちゅー女だ、あいつ。
「…」
俺がそんな事をぼやくも、
「あかね君には世話になるんだ、仲良くな」
なんて。
親父のヤツ、ちっとも真剣に息子の話を聞こうとしねえ。
「はー…」
明日から俺は、何だかんだであいつの世話になるのか。
そう思うだけで、何だか気が重い。
それに、
「…」
初日から、この険悪な雰囲気で、明日から、あいつとどう接しろというんだ?
だいたい、お互い自己紹介だってままならないようなこの状況下で、だ。
そもそも、あいつの事は何て呼べばいいんだ?それさえも分からない。
「…うー…」
不機嫌なまま一人、昼間通された道場で座り込んだ俺は、思わずため息を付く。
子供の頃から修行三昧だったせいもあって、そもそも「女」というものに、俺は慣れていないんだ。
接し方とか話し方とかだって分からないのに、ましてや名前を呼ぶなんて、そうそう気安く出来る事でもない。
「あかね…さん」
…とりあえず、あいつの名前を口に出して、呼んでみる。
でも、なぜだか背中に悪寒が走った。
「…」
…やめた、やめた。
あいつに「さん」付けで名前を呼ぶなんてありえねえ。
だいたいあいつ、どう考えても「あかねさん」って柄じゃねえだろ。
それじゃあ、なんて呼ぶ?
「あかね…ちゃん?」
…自分で呼んでおいて何だが、更に悪寒が走った。
どう考えてもあいつは、「あかねちゃん」という柄でもない。
じゃあ、
「あかねさま?」
更に呼んでみて何が、無性に腹が立った。
俺はいつから、あいつの僕になったんだ?
これは却下だな、うん。
だったら、
「天道さん」
今度は苗字で呼んでみた。
それなりに距離を置いて、それなりに丁寧で、何となく都合が言い呼び方ではあるけれど、
でも、天道家の中で一緒に生活しているのに、俺があいつの事を「天道さん」と呼ぶのは、何だかおかしな感じだ。
それに、「天道さん」なんて呼んだら、それこそ家族全員「天道さん」なわけで、全員返事しそうでややこしい。
じゃあ、どうしようか。
「おい」
…これじゃあ何だか、長年連れ添った夫婦みたいだ。
妙な誤解されたらたまらない。
「そこの君っ」
…これだと、何だか俺の性格上耐えられそうもない。
「やい、凶暴女」
これでは、初めから喧嘩を売っているようなものだ。
…あいつはどうだか知らないけれど、俺は別に、元々喧嘩なんて好んでしたいわけじゃない。
許婚の件はともかくとして、同じ流派の格闘家だし、そういった話だって本当はゆっくりじっくりしてみたいとは思っている。
「…」
そしたらやっぱり、
「あか…ね」
あかね、かなあ。
…結局俺は、そんな結論にたどり着いた。
チャン付けでも、さん付けでもしっくり来ないし、適当な呼び方もないし。
これが一番、無難な気がする。
これなら、あいつだって俺の事を「早乙女君」とか気を使って呼ばなくても、「乱馬」と呼び捨てにしやすいだろうし。
それに、「乱馬」以外で呼ばれるのなんて、俺自身もこそばゆいし。
…
「…」
俺は、そんなことを思いながら一度、深呼吸をすると、
「あかね…あか、ね。あかね」
と、あいつの名前をすんなり自然に呼ぶ練習を、始めた。
…女を呼び捨てにするなんて、生まれて初めてだ。
でも、名前を呼ばなくちゃならない場合だってあるんだし、これは避けては通れない。
呼ぶことに慣れるしかないのだ。
…
「あかね…あかね。あかね。あかね」
俺はそれからしばらく、あいつの名前を呼ぶ練習を、一人こっそりと、道場でしていたのだった。
もちろんそんな俺は、
「ねえ、あかね」
「なあに?なびきお姉ちゃん」
「さっき道場でね、乱馬君があんたの名前を何度も何度も呟いてたわよ」
「はあ!?やだ、気持ち悪いっ…な、何考えてんのかしらあの男っ。やっぱり変態だわっ」
…そんな俺の様子をなびきがこっそり覗いていた事と、
そして、適当にその様子を伝言された為に、あかねが更に俺に対して反発を持った事など、知る由もなかった。