誰も知らない
「……ただいま」
返事は無い。代わりに気の抜けそうないびきが聞こえてくる。雪男は二段ベッドの脇に跪き、眠る兄の前髪をそうと撫でた。相変わらずだらしない寝姿だ。シャツが胸元まで捲れあがり、タオルケットは体の下でぐちゃぐちゃになっている。開いた口からは涎が垂れ、尻尾が時々ぱたりと跳ねる。
雪男はそれらを眺めていた。彼らしからぬぼんやりとした瞳で。やがて小さく唇が動く。疲れた、と。それから燐の首に手をかけた。
右手の親指が喉仏に触れる。軽い出っ張りだがやはり骨の硬さを感じる。汗で湿った首筋。短い髪の毛がかかるうなじ。かすかに伝わる呼吸のリズム。掌の感覚のひとつひとつが、この人の形をした人ならざるものが確かに生きていることを伝える。それは十五年間雪男を歓喜させ続け、また絶望させ続けた事実であった。
(このまま力を入れれば全部終わる。全部。自分の自由を犠牲にして兄さんを守るのも無理して強くなろうとするのも何もかもに頑張り続けるのも。全部終われる。簡単なことだ。どうして今までしなかったんだろう。僕は兄さんのために生きているんじゃない。どうして兄さんのためにこんなに辛い思いをしなければいけないんだろう。兄弟だから? 神父さんの遺志だから? でも僕だって自由にやりたいんだ。どうして僕が我慢しなきゃいけないの。ねえ。ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと我慢してきたんだ。もう捨てていいよね。それくらい許してくれるよね。神父さん。兄さんだって許して、
「雪男」
弾かれたように飛び退いた。電気のスイッチを押す。二、三回の点滅を経て人工光が部屋に満ちた。上半身だけ起こした燐が、眩しそうに目を細める。
「お前おせえんだよ」
おかえり。伸びをしながらようやく出迎えの言葉を返す。それからベッドから出ると、雪男の机の上に置いてあったミネラルウォーターを勝手に飲んだ。「晩メシはもう食ったな? 今日作ったの明日の朝に回すから食えよ」「ありがとう。何作ったの」「回鍋肉」「今月厳しいのに豪勢だね」「フフ、この奥村燐特製肉無し回鍋肉だ。うまいぞー」「いやそれって回鍋肉って言えるの?」
軽口を叩きつつも雪男は内心ひどく動揺していた。燐は気付いていないのだろうか、自分がやろうとしたことを。恐怖が鎖のようにぎりぎりと心臓を締め付ける。兄からの信頼を失うことが何よりも恐ろしい。それは雪男にとって死刑宣告にも等しかった。雪男は燐を存在意義と思う以上に愛していたので。
(……まあこの調子なら気付いてないだろう。兄さんが嘘吐けるわけないし)
コートをハンガーにかけながら、そう結論付けると雪男は安堵した。そして天の御国に行ってしまった父に心の中で懺悔する。守るべき、かけがえの無い家族である燐を自身のエゴで一瞬でも殺そうと思ったこと。さらにはそれを許されたいと思ったこと。どちらも罪深いことだ。原罪より罪深い罪だ。決して許してはならない。自分は燐を守りながら生きてゆくのだから。
「雪男ー」
密かに決意を新たにしていると当の燐に名を呼ばれた。「なに、兄さん」それまで考えていたことなどおくびにも出さず、燐に背を向けたまま極軽い調子で応答する。
「別に、いいんだぞ」
それもいつものように気安い声音だった。
「…………何が?」
長い長い沈黙を要し、雪男はやっと言葉を捻り出し振り向いた。しかし燐も椅子に座ったままこちらに背を向けていて、表情は窺えない。
「何でも」
明快とは言い難い言葉。とても先程の問いの答えになっていない。
だが、雪男は何も聞き返さなかった。
それからふたりは少しだけとりとめの無い話をした。ときどき雪男は燐の学習態度に対し嫌味を交えた提言をし、燐はふてくされた顔をしつつそれを聞き入れた。そして短針が12の下を通り過ぎた頃、雪男は風呂に入るためスウェットや下着を準備した。燐は二段ベッドの下段でタオルケットを被り、先に就寝する旨を伝えた。朝を迎え雪男が燐を叩き起こすまで、それきり話をすることはなかった。
何が、いいのか。燐は言わなかったし、雪男もとうとう聞かず終いだった。しかしその内疑問を抱いたことすら忘れるだろう。こんな、些細なやりとり。だからきっと燐の真意は永遠に闇の中だ。双子の弟と言えどエスパーではない。あんな主語述語すらはっきりしない物言いをされても雪男には分からない。そう、分かるはずなどないのだ――燐が、何を“許し”たかなんて。燐の真意も、雪男がしようとしたことも、知らないのだ。
何も。誰も。