籠の中の羊
「山下」
窓の外をぼんやりと眺める晶馬に気付いたのはたまたま。
物憂げな瞳に吸い込まれた、とでも言っておこうか。
机の上には、終礼で配られたプリントや、最後に受けた授業の教科書までもが散乱している状態。
きちっと整頓する晶馬らしくない光景に、この世に完璧な人間など存在しないのだと悟る。
どかりと目の前の席に座りこみ、晶馬の顔を覗き込んだ。
「どうしたー?帰んないの?」
「山下こそ」
質問を質問で返されて思わず苦笑する。
「今から帰ろうとしてたの。そしたら、お前が間抜け面してるから気になって」
「間抜けってなんだよ!」
愛くるしい瞳で睨まれても、何も怖くない。
膨らませたままの頬で、漸く散らばったプリントを束ね始める。
その滑る様な手つきに、思わず見とれてしまった。
「何かあった?」
「え?何かって?」
きょとん、とした瞳で首を傾げる姿が、また胸を騒がせる。
コイツは生まれてくる性別を間違ったと常々思う。
「何かは何か。だって、今日ずーっと変だったから」
「…そう?」
「そうだって!兄貴と喧嘩でもしたんだろ。ここ、怪我してるし」
首筋に浮かぶ鬱血のような痕を指差すと、ぴくり、と少しだけ反応したのを見逃さなかった。
瞳を伏せながらうなじを手で覆う仕草が、どうしてだか眩しい程艶めかしい。
「何?ビンゴ?」
「ち、がうよ、喧嘩じゃ、…あ、」
晶馬が少し身を乗り出した瞬間、束ね損ねたプリントが数枚、ひらひらと舞う様に落下した。
慌てて床に散らばったそれに晶馬が手を伸ばした時、捲れ上がった袖口から偶然見えてしまったのだ。
青紫に変色する、痛々しい痕が。
白い肌には、その痕がよく映えていて。
細い紐状のようなもので縛られた痛々しい傷跡の上に、更に引っ掻いたような痕跡まで残っている。
恐らく、解いてくれと抵抗した跡なのだろう。
合意の上で為されたものではない事に気付いて、一気に身体の芯が冷えていく。
何か言わなければと、そう思うのに、上手く言葉が紡げない。
情けないことに、絞り出そうと喉を通り抜けるのは声ではなく、ひゅーひゅーと言う空気の漏れる音だけ。
「晶馬、」
「え、何?」
「そ、の痕、」
「晶馬」
びくっと肩を揺らして声のする方へ視線を向ければ、仏頂面の冠葉がドアに凭れ掛り、こちらを一直線に見詰めていた。
ぎくり、と。
何故かその瞳に、恐ろしさを感じて震え上がる。
「晶馬、帰るぞ。陽毬が待ってる」
「うん…」
兄の声に急かされるように、晶馬は慌てて鞄に教科書を仕舞い込み、がたりと席を立つ。
「じゃあ、また明日」
軽く手を上げて、綺麗に笑った。
「え、お、おう、またな」
どっと噴き出す汗に気付かれぬよう、平静を装う。
その瞬間でさえ、冠葉の視線は外されることはない。
―――瞳に籠るのは、嫉妬。
ただ、弟を取られたくない、と言った可愛いものじゃない。
もっと、どろどろとしていて、醜悪な感情。
それに気付いてはいけない、と警鐘が鳴り響くが、心の奥底でもう答えは出ている。
いつもは働かないくせに、今日に限って妙に冴える頭が恨めしい。
まさかまさかまさか。
コイツらは家族で、双子で、男同士で。
だけど。
どうにも最近、艶やかさが増した表情。
そして、うなじに刻まれた恐らくあれは、キスマーク。
それはきっと、冠葉の一存で晒される羽目になった、所有物の証。
これらの説明が付く結論など、一つしか思い当たらなかった。
苛々した面持ちの冠葉の腕が伸び、晶馬の手首をきつく握り締める。
痛い、と顔を顰めようとも、案じる仕草の一つもなかった。
そのまま振り返る事もせず、晶馬を攫う様に教室の外へと飛び出していった。
去り際、晶馬が何か言いた気に一瞥した事に気付く。
悲愴に揺れた瞳が、頭に焼き付いて離れそうになかった。