破戒無慙八月_序
破戒無慙八月-序
宵闇に溺れてしまったのなら、その目を瞑っていればいい。
暗闇でお前が求めるのなら、俺は手を叩いて呼んでやるから。
踏み出して、
転がって、
さあ、
ほら、
手のなるほうへ。
破戒無慙八月
じわじわと蝉が鳴いている。
暑さのあまり、木陰で伸びているのは林冲だ。
そこらに具足を放り出したまま、半裸で岩の上に伸びている。足は窪みの湧き水に突っ込まれ、百里がその湧き水で喉を潤している。
「なんて格好をしてんだ、あんた」
呆れたように言うのは、馬麟だ。聚義庁での会議が終わったらしい。
「お前はそんなに着込んで、暑くないのか」
「暑いですよ。でも間違ってもこんなとこで涼もうとは思いませんね」
「そうか?涼しいぞ。木陰だし、岩が冷えてて気持ちがいい」
「こんな藪蚊に血を吸われて死にそうな所、絶対に嫌です」
言って、馬麟は目の前で手を打ち鳴らした。開くと、ぺちゃんこの蚊の死体が手にこびりついていた。
「じゃ、そういうことなんで」
「お前、何しに来たんだ」
馬麟はそれに答えることなく、ただ手から剥がした蚊の死体を林冲の上に放って、帰って行った。
「はあ」
もう一眠り、と寝転んだ瞬間、耳元で嫌な音がした。蚊だ。
手で追い払うが、しつこく寄ってくる。無視するも、音が耳障り過ぎて眠るに眠れない。
「くそが」
馬麟が言うまで気にも止めていなかったが、これではおちおち寝ていられない。水辺にはたいてい蚊がいるとなると、涼める場所は限られてくる。
せめて、何か冷たいものが欲しかった。この岩を部屋に持って帰るか、とふと考えたが重すぎる上に邪魔すぎる。
何か、ないか。
冷たくて手軽なもの。ある程度の大きさは欲しい。
しかしいくら考えても思いつかず、下らないことで昼下がりの時間を費やしただけだった。
具足を適当に布に通して担ぎ、林冲は百里に乗って牧に帰っていった。百里を牧に帰し、物置に具足を放り出す。物置から出ると視界の端、牧の向こうを幻のように白い影が歩いて行く。
目を上げると、牧の柵の向こうを公孫勝が歩いていた。一人のようだ。
呆れるほどの厚着だ。冬よりは若干薄着だが、襟元まできっちりと着込まれた長袖の軍袍といい、その細腰を隠すような分厚い腰鎧といい、まるで暑さを感じさせない。顔は見えないが、あの白い顔はやはりいつも通りの涼しげな無表情なのだろう。
そんなことを考えていると、下腹が締め付けられるような感覚に襲われた。暑さのあまり、頭が沸いたか。躰が、かっと熱くなる。
悶々としている林冲の頭の周りを、再び蚊が飛び回る。
手を打ち鳴らして蚊を仕留めると、公孫勝がこちらを向いていた。揺らめく草いきれの中、遠い公孫勝の姿だけが林冲には見えた。全ての音が置き去りにされ、目がおかしくなるほどの強光の中だ。
気が付くと林冲は公孫勝の側にまで歩み寄り、その白い顔を見下ろしていた。
「汗臭いぞ、お前」
公孫勝が眉を潜めて見上げてくる。言われれば、そうかもしれない。
「お前は、暑くないのか?」
「鍛え方が違う」
「つまり、暑いんだろ」
「暑いに決まっているだろう」
それでも、汗一つ見せず涼しい顔をしていると信じ難い。公孫勝の手を引いて、牧の内側に連れ込む。公孫勝は少し躊躇ったが、折れて柵を軽く飛び越えて牧の内側に入ってきた。そのまま人目のつかない木陰にまで引き込み、木肌に公孫勝の躰を押し付ける。
公孫勝の前髪を額から撫で上げる様に掻き上げて、額に口付けをする。公孫勝は大人しい。
唇を吸い、服の襟を開く。白い肌は、朝露の様な僅かな汗を帯びて木漏れ日に輝いている。暑苦しい腰鎧を剥ぎ取ると、やはり両手で一掴みしかない細腰が現れた。手で挟み、撫で摩る。細い。今までも細いとは思っていたが、あらためて見ると半端でなく色っぽい腰つきだった。
腰骨は肌の上からでも形がはっきり分かる。腹筋は林冲のように筋が浮かぶほどは割れていない。ただ微かに隆起している。
肋骨と腰骨の間で僅かに括れた腰は、滑らかな曲線を描いていた。
「林冲?」
林冲が手のひらで腰骨を撫でていると、公孫勝が訝しげに見上げて来た。
「いい腰付きだな」
「口説いているつもりか?」
「そうかもな」
「そんな言葉は、そこらの女にでもくれてやれ」
「お前だから、言えるんだ」
公孫勝は口元を微かに上げた。満足そうだ。
「お前は、熱いな」
公孫勝が林冲の腕を撫でさすりながら言う。
「嫌か?」
「そうでもない」
木の幹から身を起こし、公孫勝がしゃがんだ林冲の腿の上に小ぶりな尻を載せる。躰の前面をぴったりと林冲にくっつけてくる。じわり、と公孫勝の体温と溶け合って混ざり合う。公孫勝の躰は、やはり少し冷たい。
「お前の熱は、嫌いじゃない」
感じ入ったような吐息を漏らしながら、公孫勝が言う。
「お前に焼き殺されて、消し炭になってしまいたいくらい」
「不穏なことを言うな」
「済まん」
公孫勝はくっくっと喉の奥で笑うと、林冲の額に口付けた。
呆れて公孫勝の背中に手を回すと、指先にざらりとした手触りがあった。見ると、公孫勝の背中にはひどい切り傷があった。傷口は、不器用に縫い合わせられている。
「お前、これ」
「ああ。大したことはない。挟み撃ちにされて避け損なっただけだ」
公孫勝は笑みを深くして言う。
「意外だな。てっきり私の血の匂いを嗅ぎつけてやって来たのだと思っていた」
「馬鹿を言うな。獣じゃあるまいし」
「似たようなものだ」
「なんだと」
「現に、血でお前を釣れたからな」
公孫勝の笑みは冷ややかだ。
「俺が獣なら、お前は何だ」
「何だと思う?」
じっと瞳を見つめる。金色の瞳は、透き通っている。真っ白な肌。血の通わない、嫋やかな。
「お前は、花だ」
「何?」
「真っ白な、穢れのない花だ」
「皮肉のつもりか」
「本当に白いだけなら、ただのつまらない花だ」
公孫勝の首筋に鼻を埋める。何処となく、死臭のような、花のような、不思議な匂いがする。
それが血と泥の混ざった匂いだと気が付くのに、少しかかった。
「お前のような白い花には、鮮血のような赤が似合う」
「赤は、嫌いだ」
公孫勝が林冲の髪に顔を埋めながら言う。
「赤は、彼岸に咲く花の色だ」
「あの赤には、まだ早い」
それに、と林冲は付け加えた。
公孫勝が首を捻って、林冲の顔を見る。
「赤は、この血潮の色だ」
公孫勝の頬を撫でる。やはり、冷たい。日陰にひそりと咲く、花の冷たさだ。
「この熱の色だ」
公孫勝は、無表情だ。ただ林冲の熱を貪る様に、躰に腕を回しきつく抱きしめてくる。
「熱い」
公孫勝の冷たい吐息が、林冲の耳元をくすぐる。
「ずっとそばにいたら、焼き尽くされてしまいそうだ」
「当たり前だろう」
公孫勝の腰を抱く。冷たい。死んで久しい人間の様だった。
「俺は、無尽蔵の発熱体だ」
この血が躰を巡る間は。
照り付ける太陽ほどの熱で、こいつに自分を刻むだけだ。
太陽を見続けた果てに光を失ってしまうように、俺以外が見えなくなってしまうほどに。
いつか、盲目的に俺を求めてくれるなら。
踏み出して、
転がって、
さあ、ほら。
「手のなる方へ」
公孫勝の髪を指で解き梳かす。
しかし公孫勝は鼻で一つせせら笑って、
「馬鹿馬鹿しい」
作品名:破戒無慙八月_序 作家名:龍吉@プロフご一読下さい