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cloudy sky

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 どこでもいいと適当に選んだはずの座席は、しかし長い足を組んでなおくつろげるだけのスペースを有していた。もっと窮屈で、もっと過ごしにくくても構わなかったのにとレンは口端を上げる。それは、無意識にでもそれらしいクラスを示した係員と、頷いた自分への自嘲の笑みだった。


 自分が間違いなく神宮寺の人間なのだと証明された夜と同じだけの荷物を持って、レンは屋敷を出た。
 父親の葬儀の夜だった。まだきっと繁雑な事務手続きが残っているだろう。兄達はまだ途切れることのない弔問客への挨拶に追われているだろう。だから自分はここにいる。誰にも見咎められることなく、あの日と同じだけの荷物を持って、飛び出した。
 座席も、行き先も、どこでもいいと思っていたはずなのに、イタリアへと向かう空の上だ。縋るようにか、逃げるようにか、選んだのは幼い頃の思い出の国だった。
 離陸し、手持ち無沙汰になったレンはポケットの中身を取り出してみる。荷物と呼ぶことすら躊躇ってしまう。財布と、パスポートと、それから。

 以前より第一線を退いていたレンの父親が亡くなっても神宮寺財閥は揺るがなかった。既に実質的な当主となっていた長男とそれを補佐する次男。それだけで充分だった。遺言と、優秀な弁護士と優秀な息子達による、誰からも文句が出ない完璧な遺産分け。
 三男であるレンにもまた相応の資産は分配された。今後一切、何ひとつ為すことがなくても、誰にも必要とされなくても、誰も必要としなくても、生きていけるだけの、もう何も期待されていないというだけの空っぽで、莫大な資産だった。
 甘受する傲慢と堕落を持ち合わせていれば良かった。むしろ抗う勇気と無謀を秘めていれば良かった。
 手の中にあるものを、捨ててしまえるだろうかとレンは瞳を閉じた。自分を示すもの全てをなくしてしまえば誰でもなくなる。パスポートを捨て、帰ることが出来なくなればこれは気まぐれな旅ではなくなる。兄達のうちどちらかが一瞬だけ探した後、元よりいないものとしてきっとあの家は回るだろう。
 自分が間違いなく神宮寺の人間なのだと証明された夜と同じだけの荷物。
 財布と、パスポートと、父と自分の血縁を証明する鑑定書。間違いなく父の子なのだと証明がなされていても、もういないのだ。どんな数値を示していても、もう父はいない。あの日から何度も破ってしまおうと手をかけては力無く折り畳んだたった一枚。今度こそ捨ててしまおうと思っていた。


「神宮寺」
 掛けられた声に足を止めた。ここでは誰一人、レンのことを苗字で呼ばない。
 元より日本人離れした髪の色や、堂々とした立ち振る舞いは簡単にレンを地元に馴染ませた。観光客用のトゥルッロを借りてひとつきほどを過ごすうちに、もはや風変わりな旅行客ではなくなっていた。
 久々に聞いた己の苗字に少しだけ肩をすくめたレンだったが、声の主は振り向く前に分かっていた。
「おや聖川のぼっちゃんじゃないか。奇遇だね」
 イタリアの気候にはあまり似合わない、きっちりと着込まれたシャツに凛と伸ばした背筋。今日に限って、まるで似合わないこの男に合わせるかのように、いつもの肌を焼くような陽射しは雲に遮られていた。
「偶然ではない」
 葬儀の夜、ちらと見掛けた横顔が、決して交わすことのなかった視線が今は真っ直ぐに向けられている。
 あえてナポリには足を向けなかったのに、見透かしたかのようにここにいる。そんなところが、きらいだった。

 ムラング・ココを並べたような屋根を見下ろしながらトゥルッロの説明をしてやったのはレンだった。複数形でトゥルッリ。ひとつの部屋、ひとつの屋根。
『あの屋根は簡単に崩せるように出来ている。偉い人に怒られた時、ここは家じゃないって、壊せてしまうんだ』
『屋根がなくっちゃ、雨の日に困らないのかな』
『イタリアに雨は少ないから、大丈夫さ』

 僕らのうちも、簡単に壊せたら良いのにね。そう言ったのはレンではなく、真斗だった。
「誰の差し金だい? 連れて帰ってくるように頼まれたか?」
「違う。俺が勝手にきた。この場所を知っているのは俺だけだ」
「そうかい。まぁ、いい。せっかくだ。お茶でも飲んでいけばいい」
 あの頃の面影はもう、射抜くような真っ直ぐな瞳だけなのに。その瞳の色があの日と変わらないから、レンはすいと視線をそらした。
 神宮寺。この地では誰も呼ぶことのない苗字に続いた声を聞こえなかったことにしたかった。いつだって、あの時だって、真斗は自分のほうがずっと幼いくせに、泣いても良いよ、おにいちゃん、と言ったのだ。
「どうしたら、お前を泣かせてやれる?」

 ――泣かないさ。イタリアに雨は少ないからね。
作品名:cloudy sky 作家名:東雲