相対概念
雷蔵はといえば、同じクラスの、同じ部屋の、仲の良い無二の友人が己の姿形を真似ているというのに、取り立てて気にしている様子はない。自分以外の者を惑わしている時などは三郎を叱ったりもしているようだが、三郎の目下の標的である下級生たちの居ない場では、あたかも生まれた時よりこの姿だったというかのように振る舞う彼を、雷蔵は止めもしなければ責めもしなかった。五年の皆々は三郎の度を超した奇行にも、雷蔵の度を超したお人よしさにも慣れていたので、こちらもまた特に気にするようではなかった。
三郎は変化の術に何より長けていたので、雷蔵以外にも模せる姿は数多ある。彼が本気になりさえすれば、少なくとも学園の生徒程の腕前では誰も彼の変装を見抜けはしまい。完璧な変化とは、と三郎は語る。完璧な変化とは、即ち完璧な同一化だ。姿だけでもいけない、仕草だけでもいけない、声音だけでもいけない、心だけでもいけない、全てを模してこそ化けるというのだ。
かつての彼の言葉どおり、三郎が本気を出した時には未だ見破られた試しがない。彼ときたら、相手を半刻ほど見詰めるだけで、すっかりその全てを写し取ってしまうのだ。同輩たちに留まらず、教師であってもそうであるし、先日立ち寄った茶屋の主人など、そのような行きずりの姿ですら完璧に模写してみせる。
そんな三郎であるのだが、何故か常日頃模してみせる雷蔵の姿である時は、けして雷蔵のように振る舞う事なく、彼自身の声音で語り、彼自身の仕草をしてみせ、まるで雷蔵ではなく三郎であると見抜いて貰いたげですらあった。繰り返すが鉢屋三郎とは変化の達者である。彼がその気になりさえすれば、声も仕草も性根さえも、雷蔵に成り済ます事が出来るのである。だが三郎は、けして見目以外には雷蔵を真似る事はない。なので誰もがたやすく三郎を見破れた。
三郎は雷蔵になりたいのではないか、という噂とも言えぬ与太話が出回った事がある。
何せ彼ときたら変わり者で、皆に愛されてはいたけれど好かれているとは言えなかった。愛敬だけはやたらとあるので、どんな悪戯も最後には許されてしまうのだが、時にはそれで痛い目を見る者もいたので、やはり好かれているとはいえなかっただろう。彼の巻き起こす騒動は遠くから見ている分には楽しいのだが、渦中ともなれば正直な話、面倒だった。言って聞く三郎ではないので制止にも懇願にも意味はない。周りに出来るのは、彼が何やら企んでいる気配を察し、標的にされぬよう逃げるのみだ。
そんな彼の傍には絶えず雷蔵が居り、というよりも三郎の方が雷蔵を見れば駆け寄る、といった有り様だったが、それでも雷蔵だけは三郎を邪険にする事はない。四六時中近くに居るのだから、皆の知らぬところでも三郎は奇行に走り雷蔵に迷惑をかけているだろう。それでも雷蔵は、三郎は大事な人だよと笑う。そのおおらかさや優しさもまた周知の事実で、忍びとしては褒められない性質ではあるが、皆は雷蔵のそうした面を愛したし好いていた。
三郎は雷蔵になりたいのではないか。三郎とて、己が積極的に人に好かれているとは思ってはいないだろう。雷蔵の周りには常に誰かしらが集まったが、三郎は大抵を一人で過ごすか、雷蔵と過ごすかの二択である。三郎は雷蔵になりたいのではないか。あんなに優しくて人に好かれ愛される、雷蔵になりたいのではないか。
不躾にもそのままを問うた事があるのだが、三郎はいささか複雑な顔して奇妙な笑みを浮かべただけだった。
今ではそう囁かれる事はない。というのも、三郎は雷蔵になりたいのだ、雷蔵に憧れているのだ、というのもまた周知の事実となったからだ。誰も三郎から「そうだ」と答えを貰った者はいないけれど、三郎が素直に答えるはずはない、というのもまた共通の認識であったので、答えないのが答えなのだろうと皆勝手に納得した。今ではわざわざ口に出して確認する事でもない、と思われている。
今日も三郎は雷蔵を伴って、雷蔵に何やら語りかけている。雷蔵はそれに耳を傾けているのか口を開く様子はない。雷蔵を好いている三郎が、母を慕う子供のように見えた。それは理由のない愛情で、無条件の愛情だ。三郎は雷蔵の返事などなくともいいかのように、一人でに喋り続けている。雷蔵が答えようと答えまいと、自分を愛そうと愛すまいと関係なく、ただ雷蔵が好きなのだ。と、いうふうにも見えた。
「あー、また不破に引っ付いてんのか」
同じクラスの者が俺の後ろを通りがかるなりそう言った。俺が何もない場所で立ちどまっていたので、不思議に思い視線を追いかけたらしい。彼も二人の姿に気付きそう漏らした。
「不破もよくやるよ、あの鉢屋の相手してやってんだからさ」
俺は曖昧に笑った。と、俺が気を悪くしたと勘違いしたのか、同級生は慌てて「別に鉢屋がどうってんじゃないけど」と付け足す。俺はクラスの垣根を超えて、比較的彼ら二人と交流を持っている方だったので、友人の悪口を言われて俺が機嫌を損ねたと思われたらしい。俺が何かを返す前に、居心地が悪くなったのか、同級生は用事があると言い訳してそそくさとその場を立ち去った。
俺は何の縁か、雷蔵とも三郎とも親しかった。なのでこのような扱われようには慣れている。慣れてはいるが、気持ちの良いものではなかった。
俺は三郎に何かをされた覚えはない。そりゃあ時々奇抜な事をやってみせる奴だけれど、それを迷惑だなんて感じた事は一度もない。そう思っていたなら友人などになりはしない。
けれど人は、久々知が何かを言うより先に、あの鉢屋の相手をするのは大変だな、と同情を寄せてくるのだ。いわれのない事で聖人君子のような扱いを受けるのも、何をしたわけでもない内から三郎が悪しように言われるのも、まったくもって気持ちの悪い事だ。
たまの交流である自分でさえこの言われようなのだから、常日頃傍に在る雷蔵などはもっと同じ扱いをされているのではないだろうか。雷蔵は優しいな、三郎の相手をしてやるなんて。と。
果たして三郎は、雷蔵の姿である時に何故中身までも真似てしまわないのか。彼の腕前ならばたやすい事であるだろう。彼はいつも雷蔵の傍にあり、雷蔵の優しさも穏やかさも何もかも一番知っているのだから、その気になれば、雷蔵になりたければ、簡単なはずなのだ。
彼は今日も雷蔵の成りをして、それでいて雷蔵とは違う振る舞いをする。人に好かれはしない行いを積極的に行う。あの姿で人が良い顔をしない行いをするのは全て三郎である、と皆が今日も認識し続ける。
俺たちの誰も、本当に雷蔵が優しい心根であると、確認した事はない。ただ三郎が傍にあるから、雷蔵は優しいのだと、そう言い続けているだけである。