鳴らせるものは
繁華街から少し離れたビルやマンションが立ち並ぶ地域。ほかの建物より頭ひとつ分抜き出ているマンションの上層階に帝人は足を踏み入れていた。
恐る恐るドアを開けて、家主のいる部屋に入ると、デスクトップタイプのパーソナルコンピュータの前に彼は座って待ち構えていた。
「やあ、いらっしゃい。待っていたよ、帝人くん」
「こんにちは、臨也さん。お邪魔します」
にっこりと微笑んで嬉しそうに言う臨也に帝人も笑顔を返した。
ああ、やっぱり臨也さんはすごいなぁ。
帝人は、目の前の、全身を黒で纏った男に尊敬の念を抱く。
このマンションの場所は臨也に聞いたわけではない。この日、この時間に臨也の元へ訪れることも告げていない。そもそも、帝人が臨也の居場所を知っているということを知らないはずであったのに。それでも、彼は今この時間に、複数ある拠点のうちのこの場所で帝人を待っていたのだ。
「コーヒーでいいかな? ちょうど淹れたばかりなんだ」
それは、来客があると知ってのことだろう。
「あ、はい。すみません。お気遣いなく」
勧められてソファに座るものの、帝人は決してのんびりとお茶をしにきたつもりではなかった。臨也も席に座るのを、お行儀良く待っていた。
キッチンから戻ってきた臨也は、コーヒーカップを帝人の目の前と、一人掛けのソファの前に置いた。
「ありがとうございます」
帝人がお礼を言ったタイミングで、臨也はソファに腰を掛ける。
「香りがいいだろう。挽きたての豆を使ったんだ」
コーヒーは得意では無いものの、出されたものを断るのは心苦しく、臨也が一口飲んだのを確認すると、帝人もカップに口をつけた。
「美味しい?」
「え、あ、はい。美味しいです」
「そう、それはよかった。じゃあ、本題に入ろうか」
喉の奥が締め付けられるような感覚に襲われる。
油断しては、一瞬で飲み込まれてしまう。わかっていたはずなのに、コーヒーを出されたことに気が緩んでいたことに気づかされた。
背筋に冷たいものが走る。
一瞬、唾を飲み込んで言葉を振り絞る。
「少し、臨也さんに協力してもらいたいことがあって……」
「うん、そうだろうね。条件はなんだい?」
すべてを見透かされているような錯覚に陥る、穏やかでいさせてくれない彼の言葉は、帝人の心臓を貫く。
帝人は立ち上がり、臨也に近づく。手を伸ばせば触れられそうな距離で首をかしげて問いかける。
「じゃあ、何をすれば協力してもらえますか?」
不自然にならないよう両手を後ろに隠し、そのまま後ろのポケットに手を伸ばす。触れたそれは使い慣れ、帝人の手にしっくりとなじんでいた。
「うーん、帝人君がずっと俺のそばにいてくれるっていうなら考えてもいいかな」
楽しそうに笑う臨也。帝人がポケットの中から例のものを取り出した瞬間、自分の喉下にナイフを突きつけられていた。
「とりあえず、それ以上は動かないでもらえるかな」
高価そうなサバイバルナイフは、臨也のお気に入りのもので、刃は光るほど磨かれている。触れただけで薄い首の皮は破れてしまいそうだった。
「これでも君の事は好きなんだけど、俺は君を甘やかすのは趣味じゃないんだ。ごめんね」
口元は笑っているものの、瞳の奥は冷え切っている。到底、罪悪を感じている人間の様子ではない。
帝人はその臨也の表情に、怖いと思うと同時に目を逸らせない魅力を感じていた。
ああ、わくわくするなぁ。
「……楽しそうだね、帝人くん」
「え?」
無意識のうちに微笑っていたようで、指摘されて気づいた。
「まぁ、それでこそ君らしいと言うべきか……。とりあえず、手に持っている君の武器を出してもらおうか」
臨也に促されて帝人は大人しく、右手に握った携帯電話を取り出す。しかし、そこで口元をゆがめる。
「……たとえ、臨也さんでも一度手を離したものを元に戻すことなんてできませんよ?」
首に触れるナイフの切っ先に対する恐怖なんてなかった。
折りたたまれている携帯電話を開くと、メール作成画面が表示される。帝人は送信ボタンを親指で触れる。
「さぁ、これで――……っ!?」
不意に帝人を眩暈が襲った。視界がゆがみ、足元がふらつく。
力の抜けた手から臨也が左手で携帯電話を抜いた。
「そう、メールを送られると終わりだったんだけど、……どうやら時間切れみたいだね」
「さっきの、コーヒーですか」
立っていることができず、その場に腰を落とすことになった帝人は、気力を絞って臨也を睨み付ける。しかし、臨也は目の前で起こっていることを気にも留めず、涼しそうな顔で帝人の携帯電話をいじっていた。
最後の抵抗と言わんばかりに帝人は臨也が穿いているズボンの裾をつかむ。
おや、と驚いた声をだす臨也の言葉の続きを聞きながら、ひどい頭痛と眠気に負けて意識を手放した。
「おやすみ、帝人くん。愛してるよ、でも、もう少し荒れてくれたほうが――」
その続きは、誰の耳にも届かなかった。