熱情
だれもいない芥辺探偵事務所。
いや、違う。
自分たちふたり以外はだれもいない。
「私をからかっているんですか、ベルゼブブさん」
佐隈りん子が後じさりしつつ言った。
その眼差しは鋭い。
にらみつけている。
しかし、にらみつけられながら、ベルゼブブ優一は端正な顔に笑みを浮かべる。
「からかってなんかいません。そのことは、あなたもよくわかっているでしょう?」
ベルゼブブはゆっくりと歩く。
「わかっているからこそ、あなたは私をにらんでいる。私が本気であるのを感じているからこそ、そんなに余裕がない。違いますか?」
佐隈のほうへと歩いていく。
だが、佐隈はベルゼブブをにらみ、後ずさる。
けれども、広い庭にいるのではない。部屋の中だ。
佐隈のうしろには部屋の壁がある。その壁までの距離は、もう、あまり無い。
ベルゼブブは優雅に笑う。
「さくまさん、私はあなたのことが好きなんです」
さっき言ったことを、もう一度、告げた。
そして、また、佐隈のほうへ足を踏みだす。
佐隈が後じさった。
その背中が壁にぶつかる。
もう、逃げられない。
佐隈はあせった表情になった。
「ベルゼブブさんは悪魔で、私は人間です」
「知ってますよ、そんなこと。知らないはずがないでしょう?」
ベルゼブブは歩く。
距離を詰める。
自分のしていることは良いことではないだろう。
逃げる相手を追い詰める、なんて。
紳士的ではない。
相手の幸せをただ純粋に願うのであれば、自分の気持ちは押し殺すべきだ。
わかっている。
何度もそう考えて、そのたびに気持ちを押し殺そうとしたのだから。
しかし、ふとした拍子に、強い感情がわいてくる。胸の中で大きくうねって、心を揺り動かす。頭で考えたことを、吹き飛ばす。
自分勝手なのは、わかっている。
「でも、さくまさん、それではダメなんですよ。それでは、私を諦めさせることはできない」
「それ以上近づいたら、これを使います」
佐隈が手に持ったグリモアをベルゼブブのほうへ近づけた。
だが、ベルゼブブは表情を変えずにいる。
「どうぞ、ご自由に。使いたければ使えばいい。私は止めませんし、退きません。木っ端微塵にされてもかまいません。ただし、あなたもご存じのはずですが、生憎と、私はそれでは死なないんですよ。回復します。回復したら、私はまたあなたに同じことをするでしょう」
「だったら、もうベルゼブブさんは召喚しません」
「私を召喚しない?」
ベルゼブブはさらに佐隈との距離を詰める。
その分、グリモアとの距離も縮まった。
グリモアに触れてしまいそうだ。
それでも。
「へえ、本当に?」
そう問いかけながら、ベルゼブブは佐隈に近づく。
グリモアに触れたってかまわない。
制裁を受ける痛みを覚悟した。
しかし、グリモアに触れることはなかった。
触れる寸前に、佐隈がグリモアを持っている手をおろしたのだ。
グリモアが床に落ちる音がした。
「……ベルゼブブさんは卑怯です」
佐隈は横を向き、背中を壁に預けている。
「ええ、そうですね、たしかに私は卑怯です」
ベルゼブブは手を伸ばした。
悪魔のものでしかない手。
その手を、佐隈の顔の横の壁へとやった。
もう間近にいる。
体温を感じる。
「でも、あなたも卑怯です。グリモアを使うと言って、使わない。もう私を召喚しないと言ったのに、私が本当かどうか確認したら、答えられない」
どうして触れたいと思うのか。
どうして触れたときに、その温もりを心地良く思うのか、甘く感じるのか。
ただの性欲だと言うのなら、どうして特別だと感じるのか。
幻想なのか。
だが、命すら賭ける覚悟があるのに。
「私を諦めさせたいのなら、グリモアの制裁で私を木っ端微塵にして、魔界に帰して、もう召喚しなければいい。もう二度と会わなければいい」
壁にやっていた手を動かす。
佐隈の顔に触れた。
その顔を自分のほうに向かせる。
黒い瞳が見た。
顔を近づけていきながら、ベルゼブブはささやく。
「もしも私があなたを裏切ることがあったなら、そのときは、私のグリモアを天使にくれてやりなさい」