嘘をつくこと
大臣も兵も他の下男下女も逃げ出した城は耳鳴りのするほどの静寂に満ちているが、じきにそれも破られるだろう。少年は冷静に、自分でも驚くほど冷静に、赤絨毯を蹴破る勢いでなだれこんで来るであろう民兵の距離を逆算していた。
「もうあまり時間はないよ」
下男らしからぬ不遜な物言いを、しかし王女は咎めない。震える華奢な肩を、レースで飾られた絹手袋でただ強く抱きしめる。
「わかってるわよそんなこと……! だからってどうしようもないじゃない、もう!」
王女は施政者を気取るにはあまりに無邪気すぎた。なまじ握った権勢が強すぎたので更によくない。
蜂蜜色の髪をくしけずる手が不器用だと言って下女を裸で城から追い出した。
新しく纏ったドレスのウエストがきついと言って仕立て屋を殺した。
国庫の金貨が減れば国民から銅貨すら奪って美しいつくりの砂糖菓子に舌鼓を打った。
恋慕の相手が他国の娘に焦がれていると知れば、嫉妬に狂うままにその国を攻め滅ぼした。
加圧がすぎれば民は逆に反発する。
噴出の勢いは烈火のごとく、城下に満ちる怨嗟の歌声はようやく王女を、たった十四の少女を恐怖させた。
がたがたと震える王女を下男は親しげに抱きしめる。縋るようにまわされたたよりない腕をあやし、冷たく強張った頬に口づけた。
「大丈夫、怖がらないで。僕が守るよ」
「どうやって、どうするのよ、……怖いよ、レン、凄く怖いの」
すっかり幼いころの口調で、空色の双眸をいっぱいに見開いてすがる双子の片割れが哀れだった。
まだ自分たちの生まれた世界のことも理解していなかった時分に引き裂かれた関係を再び修復するには時が過ぎ、少しわがままで可愛らしいもうひとりの自分は民から憎悪される、残虐で可憐な王女となっていた。
たったひとりの分身だ。
たとえ国中の人間が少女を憎んでも少年は彼女を愛していた。少女が微笑むなら他の、少女を憎悪する者どもがどうなっても興味はないし、己の感情を殺すことも苦痛にはならない。
少年にとっての枢要は少女の幸福のみである。
民の反逆が今まで王女がおこなってきた非道の報いだというのなら、それにすら少年は反抗する。
しがみつく腕をそっと離し、王女の肩に手を置き、少年はにっこり微笑んだ。
「奴らが探しているのは、綺麗なドレスと豪華なティアラをつけた王女さまだろう? リン、きみ、僕ときみが双子だってこと忘れてない?」
少年の手のひらの下、薄い肩がぴくりと跳ねて呼吸を止めた。
こぼれ落ちそうに丸くなった瞳は宝石よりも美しく、少年は微笑んだまま同じ顔の、同じ体温の額に額を寄せた。
「僕の服を貸してあげる。これに着替えてすぐに逃げるんだ」
「……何を言っているの。だめよ、レン、だめ」
「大丈夫、誰にもわからないよ。何年きみの下男やってきたと思ってるの? それに、僕が真似っこ遊び凄く得意なの、知ってるだろ」
「ねえレン聞いて! だめよそんなの、捕まったら死んじゃうのよ! ばかなこと言ってないで逃げなさいよ! 死んじゃうんだから!」
「きみが奴らに唾棄されながら死んでいくよりそのほうがずっとましだ」
大きな瞳から、とうとう涙があふれて白い頬を伝い落ちる。ぼろぼろと止まらないそれを痛ましく見つめてから、下男は王女の手へ恭順と親愛を示す最後のキスをした。
「さあ、本当に時間がない。急いで、リン」
「レン」
「何?」
「……大好きだわ」
「うん、僕もだ」
性別、身分、その表情すら鏡合わせの双子は、そうして決別する。
黄金と宝石で飾りたてられたビロード張りの玉座で、王女はじっと座していた。赤い鎧をさらに血濡れで飾った女剣士が己の爪先に至るときを待っている。
白金とダイヤモンドでこしらえたティアラが蜂蜜色の髪をいっそう明るく輝かせている。身につけたドレスやグローブは長く国民が触れたことすらない絹をたっぷりつかった美しいものだ。手にした武器を収めぬまま、女剣士は王女を見下ろした。
外見だけは可憐な、咲きかけのばらのような少女だ。だが小鳥のさえずるように彼女が何を命じたか。王女の愛らしさは計り知れぬほどの血を吸った上で花ひらくものだ。
「あなたが王女ね」
「他の何に見えて? 私が下女に見えるなら、おまえ目を潰したほうがいいわ」
「……私と一緒に来てもらうわよ。あなたには衆目の中で相応の裁きを受けてもらう」
王女は氷点下の視線で女剣士を一瞥し、優雅にドレスをさばいて立ち上がる。
凛と背筋を伸ばし歩き出す王女へ、納剣した女剣士は何気なく手を差しのべた。仮にも一国を統べていた少女へ、せめてもの心遣いだったのかもしれない。
女剣士自身もよくわからない衝動で伸ばした手は、しかし音高く王女によって打ち払われる。ひろびろとした空間に反響音が残るほどであった。咄嗟に言葉のない女剣士を射殺すような視線で見上げ、王女は険しい口調で吐き捨てた。
「――この、無礼者! 下賤の者が私に触れないで」
王女の頭上でティアラが涼やかな音を鳴らす。冷笑をひらめかせつんと顔を背けると、彼女はそれきり立ち尽くす女剣士を振り返ることなく玉座を後にした。
断頭台がその細い首を叩き切るまで、王女はどこまでも王女であった。
血しぶきとともにあがった喝采にほんの小さな慟哭は押し流されかき消され、歴史の表層に浮かび上がることはない。