好きと嫌いの真ん中で
ロヴィーノはアントーニョを物理的に沈黙させることにかけては随一だと自負するが、まさか逆に言葉を失うはめになるとは想像だにしなかった。そもそも、彼の瞼のつやに感心するほど近く顔を寄せられる未来を思ったことがない。その唇の熱や弾力を夢想したことだってない。表面が触れるだけのくちづけは、しかし見開いたロヴィーノの目が乾いて痛みを感じるまで長々と続いた。頬にアントーニョの静かな息がこそばゆい。
「……堪忍なあ」
微かな溜め息とともにようやく唇を離したアントーニョは、硬直して浅い呼吸を繰り返すロヴィーノへ困ったような笑顔で呟きを落とした。
「……なん、……今」
驚愕のあまりソファーから転げ落ちたせいで背後と左側は壁だし、右にはソファーだ。さらに正面でアントーニョが苦笑していれば、もうロヴィーノに退路はない。乾ききった瞳を呼吸に合わせせわしなく瞬かせた表面に水膜が張る感覚があったが、涙は落とすまいと目線を上げた。
何がきっかけでこんなことになったのかわからない。ただいつもどおりアントーニョの家に上がりこみ、風通りのいい場所にある気に入りのソファーに寝そべって昼下がりの白ワインに舌鼓を打っていただけのはずだ。
口では文句を言いながらちゃっかりロヴィーノよりもグラスを多く空けていたアントーニョとの、こうなる直前までの会話も、たしか夕飯の献立についてだった。ロヴィーノがトマトソースをたっぷり絡めたラヴィオリを主張し、アントーニョはシーフードのパエリャを提案して互いに譲らないでいたのだ。おまえもトマト好きなんだから俺に合わせてラヴィオリにしろ、といった旨の文句を言った気がする。なぜ飯の話題からキスされる流れになったのだろう。
「キス、て」
「ん?」
今更ロヴィーノの顔にかっと熱が集まる。驚きすぎてかえって冷静に思考などしていた脳に血が巡ってきたらしかった。目の前で呑気に首を傾げている男の顔を見ていられないが、俯くと乾いた目を慰めるために滲んできた涙がこぼれてしまう。
おろおろ目を泳がせるしかないロヴィーノを見て、アントーニョは今しがた触れあわせていた唇をほころばせた。
「トマトみたいやんなあ、ロヴィ」
「うっ……るせ、なんなんだよてめー、何こんなときに笑ってんだこのやろー!」
「かわええなあって」
息が詰まって喉が苦しい。馬鹿野郎、と怒鳴りたかったのに声にすらならない。ぱくぱくと口を開閉させるロヴィーノの頬に、アントーニョは犬のように鼻をすりつけてくる。いつもならべたべたするなと一喝するロヴィーノに、今はその余裕がないことすら見抜いているような気にさせられる。
――普段はロヴィーノを苛々させるほど呑気なくせに、どうしてこんなときにいらない勘の良さを見せるのだ。
「……馬鹿なこと言ってんじゃねーぞ」
「ほんまのことやで?」
ふとアントーニョの笑った吐息が肌を熱く湿らせる。肩が震えてしまったのはその熱さに驚いたせいだ。
「堪忍な」
もう一度呟かれた声が優しい。
「何……なんで、謝ってんだよ」
「我慢できるって思っとったんやけどやあ、あかんかったわ」
「我慢?」
馬鹿のように同じ言葉を繰り返すロヴィーノの肩にアントーニョが触れる。薄いシャツ越し、皮膚に食いこむほど強くロヴィーノを掴む指先も熱かった。
この手に守られたからこそ今が、ひいては弟とともに背負うイタリアという国家があるのだと、いつからかロヴィーノは気づいている。口にすれば確実に羞恥で憤死してしまうからその事実をアントーニョへ告げたことはなかったが、記憶の片隅にいつも引っかけては横目に眺めていた。
ロヴィーノにとってアントーニョは春の日だまりであり、真夏の木陰だった。そこでまどろむのが当たり前になっていたから、思いがけない唐突さで触れてきた熱に困惑がやまない。
「ロヴィ、俺のこと好きになってくれんかなあ」
「……は?」
また至近距離で顔を覗きこまれぎくりとする。抱擁を解き、強張ったロヴィーノの両手をあやすように揺らして、アントーニョはやはり情けない顔で笑った。
「もうなー、あかんねん俺、歯止めがきかん」
頼むわ、と言いながらアントーニョはロヴィーノの左手を持ち上げた。見せつけるように手首を返し、ぽかんとしたままのロヴィーノから目を逸らさずてのひらへ顔を寄せる。
さっき唇で感じた柔らかさを手の上に受けて背中がおかしなふうに跳ねてしまった。反射的に腕を引いたのにアントーニョがそれを許さない。眇めた目が視線を逸らせずにいるロヴィーノを映して痛いように光った。
「?Le gusta? ?Lo detesta?」
「――babbeo」
顎が喉元につくほど深く俯いた。アントーニョは選択権を与えているつもりらしいが、ロヴィーノからすれば逃げ道などない。ちくしょう、と弱々しく吐き捨てたら正面に苦笑する気配が落ちた。
「ふさけんなよちくしょうめ」
「俺めっちゃ真剣やねんけど」
「うるせー。喋んな」
泣いてしまいたい。アントーニョの肩に力のない頭突きをした格好のまま目を閉じる。
頼まれて誰かを好きになるなんてごめんだし、そんな器用な真似だってできやしないのはアントーニョだってわかっているはずだ。だから彼が用意したつもりの逃げ道なんて意味がない。
「晩飯はラヴィオリで決定だからな」
ロヴィーノが望む前から諦めて、それでも諦めきれずにぐずぐず抱えていたものを、アントーニョは手に入れるのだ。夕食の決定権くらいはロヴィーノが獲得するべきだ。
耳の先まで熱くなりながら告げたのに、頭上から降るアントーニョの声は困惑で間延びしている。
「……ええと、晩飯はええけどロヴィ、答えは?」
「い……今言っただろーがこのやろー! 悟れよそんぐらい!」
「ええー? 言うたかなあ……」
しきりにうんうん唸っているアントーニョへもう一度、今度は少し強めの頭突きをして、ロヴィーノはどうか独り言で片付くようにと腹の底から願いつつ口の中ですばやく囁いた。
「……も、もう一回口にしたら言ってやってもいいかもしんねーけど」
言い終わるや否やさっと顎をすくい上げられて、笑み輝かせたアントーニョしか見えなくなる。なんで今のが聞きとれたんだとうろたえる間もなく、ロヴィーノの望む場所に唇が触れてきた。
作品名:好きと嫌いの真ん中で 作家名:yama