神主と先生
逆光のその影からは、白い糸のような煙が、するすると曇天に向かって伸びていた。
淡々とした足取りで階段を昇る極月の気配に、踊り場の人物が気づいて振り返る。
こちらの姿を見下ろす顔は逆光だったが、眼鏡の向こうで露骨に顰められた表情は、はっきりと認められた。
「………何やってんですか、こんなところで」
嫌悪を隠す気のないその声音に、最近ではいちいち腹を立てることはなくなった。
今はただ、知りたい、と思うのだ。
まるで手負いの獣のように自分にだけ向けられる感情の理由が、極月にはわからない。わからないから、知りたい。それは極月にとって実に単純な理屈なのだが、目の前の男にはまるで理解できないらしい。
要するにお互い様なのだ。
「そっくりそのままお返ししてやるよ」
「もう授業が始まってるでしょ。さっさと教室に戻ったらどうです?」
「そう言うお前の方はどうなんだ。出席全然足りてねーんだろ」
長い入院のせいで留年したものの、ようやく学校に戻ってきたかと思えばろくに教室に姿を見せず問題になっているという話は一学年下の極月の耳にも届いていた。
大人たちはこの男をどうにも持て余しているのだ。あんな事故で半死半生のまま半年も眠り続けたのだと聞けば、多少なりと腰が引けるのも仕方ないのかもしれない。けれど、そういう中途半端な大人たちの対応が、この男を興醒めさせているだけだと、なぜ気づかないのか。
「あなたには関係ないことでしょう。放っておいてくれませんか」
「それができるなら、そもそもこんなとこにいねぇだろ」
放っておけるようなら、最初からそうしている。
こちらのきっぱりとした返答が気にくわなかったらしく、その男はフン、と鼻を鳴らした。
そっぽを向いて、再び指先に挟んでいたそれを、口に咥える。
細い喉笛が、何かを嚥下するように上下する。
それを見て、自然と自分の眉間に皺が刻まれるのがわかった。
「………なぁ、おい。お前、そんなもん吸ってて、平気なのか」
声を低めて問うと、その男はへらりと胡散臭い笑みを浮かべた。
「見つかったところで反省文くらいですよ。せいぜい停学処分が関の山、」
殊更に軽薄なその言葉を、極月が怒声で遮った。
「馬鹿野郎、そんなこたぁどうでもいいんだよ!昔から喉弱いくせに、余計に悪くするんじゃねぇのかって、俺はそういう話をしてるんだ!」
相手の肩を掴んでこちらを振り向かせ、正面から怒鳴りつけた。
学ラン越しでもわかる骨ばった薄い肩の感触に、やり場のない感情が込み上げる。
「それが望みなのだと言ったら、あなたはどうします?」
こちらを見上げるひんやりとした微笑が、肩を掴む手の力の加減を狂わせる。
「……………何だと?」
「胸倉掴んで罵りますか?殴りますか?まあ、そんなものに何の意味もないことくらい、さすがのあなたにもわかっているでしょうけれど」
腹立たしいほどに軽薄な声音に、安い挑発だとわかっていても頭に血が昇る。
こんな男の思う壺にはまってたまるかと思うのに、肩を掴む手が震えた。
それに気づいた男は、ふふ、と小さく笑った。
「もう、この辺にしませんか。あなたの言葉が僕に届くことはないのだから」
お望み通りぶん殴ってやってもよかったけれど、この男の言う通り、そんなことは無意味だ。むしろ、この男はそうなることを望んでいる。罵り、殴らせることで、すべてを断ち切ってしまいたいと思っている。
(させて堪るかよ)
だから極月は肩を掴んでいた手を離すと、そのまま男の口に咥えられていた煙草を素早く奪い取り、あっと呆気に取られている男を尻目に、それを自分の口へ運んだ。
苦い味が、口の中に広がり、喉を満たす。
極月は煙を吐き出しながら、渋面で唸った。
「………何だこりゃ。ひでえ味だな」
「ちょ……っ!自分が何やってるかわかってんですか!?」
ヒステリックに叫ぶ狼狽ぶりが物珍しくてつい笑ったら、眦を吊り上げて睨まれた。
「届かねえかどうか、やってみなけりゃわかんねーだろ」
「…………救いようのない馬鹿ですね、本当に」
「珍しいな。俺も同じ意見だ」
至極真面目な顔で返すと、男はそれ以上何も言い返してはこなかった。
極月はもう一度、男から奪った煙草を口許に運ぶ。
味は変わらず酷いものだったが、立ち昇る香りだけは悪くないと思った。
気づけば傍らの男は、新しく取り出した一本に火を点けていた。
ゆらゆらとくゆる煙の糸は、付かず離れず、するすると空へ昇り、鈍い光の向こうへ消えていった。