明日はいらない
例えば私が怒ってみせたとして、それをあなたは可愛いと笑うでしょう。
例えば私が泣いたとして、しようもないことをしたとして、あなたはそれでも私が好きだと囁くでしょう。
可愛い滝夜叉丸、好きだよ、お前が好きだよ。
私は幾度もあなたを試す。試すたびに許される。可愛い滝夜叉丸。好きだよ、好きだ、お前が好きだ。
ああ、このなんという幸福。なんという幸せ。
私は常に許されていた。私は常に愛されていた。私は絶対の肯定を手に入れた。私は拒絶されない。私は疎まれない。私は否定されない。あなたが、あなたの声が、腕が、言葉が、仕草が、眼差しが、指先が、微笑みが、あなたが、あなたの全てが私を肯定する。好きだよ、滝夜叉丸。
そのなんという幸せ、そのなんという恐怖。
私は恐れた。あなたを恐れた。あなたが好きだと囁くたびに心が弾み舞い上がり、その次の刹那には四肢を強張らせ微笑みを消した。こんなに強い光を浴びたなら、生まれる影も色濃い。あなたに愛されるたび私は振り返る。足元から伸びる暗い闇色は深さを増した。いつでも私をたやすく呑んでしまえると、ぽっかり口を開けて待っている。私が恐怖に負けて倒れ伏すのを、今か今かと待っていた。
いっそ嫌われてしまいたい。とまで願った。あなたに否定されたら私は生きていけない。そう信じ込んでしまうほど私は幸せだ。
好きだよ、滝夜叉丸。
私は息を吸う。指先が爪が掌に食い込んで痛いほど拳を握る。勢いづけて顔をあげる。勇気を振り絞る。わたしもあなたが好きです、先輩。喉が震えた。輝いてさえ見える笑顔を返されて私の心に幸福が流れ込んでくる。あなたの愛が私の冷えた爪先までじわりと暖めていくまでをじっと耐える。あなたの光を受け入れてようやく影は消えた。
「先輩は」
「ん?」
「先輩は、わたしのどこを好いてらっしゃるのですか」
私は幾度もあなたを試す。七松先輩は寝そべったまま闇夜に沈む天井を見上げた。釣られて視線を流したけれど何もない天井には答えなど書かれていない。うーん、と口の中で唸り、それからくるりと体を横に倒し、先輩が私を見る。
「わからないな。全部好きだ」
わたしの可愛い滝夜叉丸。好きだよ、好きだ、お前の全てを愛しているよ。
私は試すたびに許される。全てを肯定される。私が私であるというだけで愛されるこの幸福、この恐怖。
全てが。全てが愛しいなどとあるものか。私は先輩の嫌いなところを指が足りないほどに言えます。足の指を使ってさえ足りないでしょう。勝手なところも、人を振り回すところも、そうでなくとも例えばささいな、寝相が少し悪いだとか食べてる最中に喋るだとか、そんなことさえ私は嫌いなんです。嫌なんです。全てが好きだなんて受け入れられない。
それでも腕を伸ばされ抱きしめられれば泣きたくなった。幸福に泣きそうだ。そろりと慎重な手付きですがるように抱きしめ返せばあなたが微笑む。影が濃くなる。恐怖が増す。
空が表情を変えるように、時が歩みを止めないように、流れていかぬものなどない。今一時の幸福が真実だったとして、明日もあなたが私に微笑むなどと誰が言える。私があなたを失わないと、誰が肯定してくれる。
信じられるものなどなかった。信じたいものがあった。信じるほどに足がすくんだ。振り返れば影が笑う。早くおいでと手招きする。楽になれると、口を開けて待っている。恐怖はいつでも私を呑み込みたがっていた。
先輩。私はすがる腕に力をこめる。闇は影は恐怖は絶えず待っていた。私は振り返らない。あなたを見る。
好きです、あなたが好きです。
あなたは笑う。私の髪を撫でる。頬に触れ額に口付ける。好きだよ、滝夜叉丸。影があざ笑った。
認めるな、受け入れるな、天の光に焦がれてどうなる、近付けば近付いただけお前から生まれる影は大きくなるばかりだ、落ちれば痛いぞ、体がばらばらになってしまうぞ。
私は耳を塞ぐ。私は私という幸せに、耐える。じっと息を潜め、あなたの腕の中でただ明日を待つ。今日という幸福を終える日が、きっといつか訪れるのを、幾夜も待ち焦がれ、幸せに耐え続けた。