月の縁を歩く
カ、ツンと掛け声とは一拍ずれた靴音がした。
少し前を歩いていた善吉が振り向くと、不知火が縁石の上を平均台と同じように歩いている。
高校生と呼ぶにはあまりにも幼い姿に、善吉はどう声を掛けるべきか一瞬迷った。どう声を掛けても、彼女のことだ。善吉の忠告等まるっと無視するに決まっている。だからといって、こちらも同じように無視出来るかと言われると善吉の面倒見の良さが許さなかった。
結局、一番無難で適当で、無視されても痛くも痒くもない言葉を選択する。
「こけるぞ」
「にひひっ、あたしはそこまで運動音痴じゃないですよー」
無視されずに言葉は返ってきたが、不知火は縁石平均台歩行を続行。両腕を広げて、わざとらしくふらふらと歩いていく。
不知火が善吉のところに追い付くまでその場で待つ。誰に見られているという訳でもないのに、善吉はポケットに手を突っ込み、いかにも「仕方ないから待っててやる」というポーズ。
ふらふらとやってきた不知火が善吉の傍を通り過ぎる寸前、広げられていた右手を善吉が引っ張った。
ひゃっ、と随分可愛らしい悲鳴を小さく上げて、不知火が歩道に着地。それを確認すると何もなかったかのように善吉は手を離し、すたすたと元のペースで歩き始めた。
「人吉の馬ァ鹿! こけたらどうしてくれるのさっ」
「こけるほど運動神経悪くないんだろ?」
善吉は後ろで喚く不知火の方を振り返らない。揚げ足を取られた形となった不知火は、渋々歩道を駆けて善吉の隣に並んだ。
「ふむ」
パンッ、と勢いよく扇子を閉じて、箱庭学園の生徒会長は物思いに耽った。
見慣れた黒服に金髪の幼なじみを視界の端に捉えたので、そのまま視線で追い掛けていたところ思いがけない場面を目撃してしまった。
「……ふむ」
すとん、と先程の光景が胸に落ちてこない。
善吉は友人である不知火の身を案じて彼女の手を引いた。それだけではないか。
確かに縁石の上を歩くのは危ない。軽く足が縺れただけで転んでしまう。
その気になれば人は二センチの水溜まりで溺死出来る。つまり、高さと危険性は比例関係ではなくイコールで繋げるべきではない代物だ。
たかが縁石、されど縁石。二センチの水溜まりよりも遥かに高い縁石だ。転べば擦り傷を作るのは確実。
めだかの愛すべき幼なじみは、他人の身を案じられる心根の優しい少年だ。そこで終わらせればいいのに、思考はなかなか上手く収まり切らない。
「例えば」
ぽつりと呟いた声は誰かに聞かれることもない。
「私が不知火と同じように、縁石の上を歩いても――善吉は私の身を案じてくれるだろう」
「例えば、歩道橋の欄干や、屋上のフェンスの上を同じように歩いても――善吉は必ず、私の身を案じてくれる」
十四年の付き合いからくる確信。めだかの声は小さいが、力強かった。
「だが」
きっと、私の手を引いてはくれないだろうな。
めだかは縁石の上を歩く危険性を知ってはいても、それを実感することはない。縁石だろうが欄干だろうがフェンスの上だろうが、黒神めだかは落ちる事なく体の平均を保ち、跳躍・回転といった運動を行える。
善吉は危ないと言って止めるだろう。だが同時に、黒神めだかならばこれぐらい出来るとも思っている。
「どうすれば貴様の方から手を握ってくれるのだ、善吉よ」
この“黒神めだか”の身を案じてくれる人間というだけでも掛け替えのない存在なのに、あえて違う立場として彼に心配されてみたいなどと――本当にらしくない考えだ。
誰に見られているという訳でもないのに、自然な流れで開いた扇子で口元を隠した。
091221