フランケンシュタインの慟哭
(私を見ろ! 醜い私を見ろ!)
虚像が実像に訴えかける。
めだかは指を鏡に滑らせた。鏡の中のめだかも同じように手を伸ばし、虚像と実像が鏡面越しに触れ合う。
鏡の中のめだかの身体には傷一つついていない。陶磁の肌は滑らかで、実際自分で触れてみるとさらりてしていて、それでいて確かな柔らかさと温かみがあった。この柔らかさと温かみは、鏡の中の自分にはないものだ。
鏡の中の私が訴える叫びは、一体誰のものだろう。素知らぬ振りをしてめだかは首を傾げた。
困っている他者の叫びを、この黒神めだかが聞き逃すはずがない。だが、鏡の中から聞こえてくる叫びは果たして自分のものなのだろうか。
姿形こそはめだか本人だ。ただ、訴えている内容が鏡の前に立つめだかには理解出来ない。とても自分が叫んでいるものだとは思えなかった。
めだかは自分を醜いと思ったことは一度もない。他者の為にある完璧な肉体だ。全盛期に比べれば筋肉は落ちているのは否めないが、それでも筋肉の付き方や女性らしさを失わない柔らかみは美しいものだと自分でも思う。
他人の為に作り上げた美しさだ。誰かの役に立つために神が彫刻を施した身体だ。そんな身体の一体何処が醜いというのだ。
(私を見ろ! 醜い私を見ろ!)
誰の叫びだろう。何処かで聞いたことのある叫びだ。
「ああ」
それほど悩まず、めだかはこの声の本来の主を思い出した。
「フランケンシュタインの被造物か」
死体から生まれた人造人間。
一介の学生が“理想の人間”として生み出した怪物。
人間の理想が全て詰め込まれた肉体、その肉体に内包された心も繊細で美しかった。しかし、その外側、容貌があまりにも醜かった為に“怪物”と呼ばれてしまった神への反逆。
めだかは人の美醜を特に気にしない。美しいのは、その内側にある柔らかなものだ。気高いものだ。俗にいうフランケンシュタインを、めだかの感性は醜いとは思わない。
そういった設定付けがあるから醜いと思わねばならぬだけで、彼の魂は少なからず創造主の学生に拒絶される前は清らかだったはずだ。
(私を見ろ! 醜い私を見ろ!)
自ら醜いものだと言った怪物の心境。
めだかの目の前からはとても遠いもので、背後にすぐ迫ってくるほど近しいものだった。
「……私を、見ろ」
鏡の中の人物を見据えてめだかが言う。
すっと紺碧の瞳を細めて、本当にこの言葉を伝えたい相手にようやく思い至った。
(私を見ろ! 醜い私を見ろ!)
夕日の差し込む生徒会室/喧騒は向こう側/無音/呼吸音/声なき慟哭。
「私を見ろ、人吉善吉」
先に生徒会室に来ていためだかは、善吉が来るなり彼の身体を押し倒した。勿論力を加減して彼の身体が何処かにぶつかることのないように。
善吉も反射的に受け身を取ったが、あまりに突然のことで一体何が起こったのか理解してはいなかった。
「めだかちゃん、どうしたんだよ一体」
善吉が訝しげな顔で尋ねる。めだかは自虐を込めて微笑んだ。
「私を見ろ、善吉」
「こうして見てるだろ」
めだかは善吉を押し倒し、そのまま彼の腹に馬乗りになった。めだかは善吉を見下ろす恰好になり、当然善吉の視界にはめだかしかいない。
「そうではない」
めだかは首を振り、長い黒髪がぱさぱさと動いた。
(私を見ろ! 醜い私を見ろ!)
善吉に何を言っても、めだかが伝えたいことを何一つ伝えられないことは分かり切っていた。
言葉だけでは足りない。それに気付くと、めだかは即座に行動に移った。
「な、なにやって……!」
それまで善吉の両腕を床に縫い付けていた己の手を離し、そのまま制服の上に手を掛ける。
「善吉、動くなよ。貴様は私を見ていれば良いのだ」
そんなことを言わずとも、彼は動けないだろうと分かっていた。
めだかの睨みに善吉はそのまま固まってしまう。自分を押さえ付けるものは何一つないというのに、身体を起こすことさえしなかった。
腕の代わりにめだかの言葉が彼を縛り付けていた。
ぱさり、と布音。視線を逸らすことを許されていない善吉は、半裸の幼なじみの姿に赤面した。う、と小さく呻いただけで浅く呼吸を繰り返すだけだ。
「善吉、私は醜いか?」
「何、言ってるのかさっぱり……いきなり訳分かんねえよ」
「ならば質問を変えよう。貴様は私の身体に欲情するか?」
ひゅう、と息を吸い込んだきり、善吉は何の反応も返さなくなった。ああ、固まったな、と予想範囲内の反応に対してめだかは焦ることはなかった。
「貴様は私の身体に欲情するか、と聞いている。ああ、これでも足りぬと言うのなら、このような布切れ何枚でも剥いでみせるぞ」
「めだかちゃん!」
先程吸い込んだ息にあらん限りの怒気を込めて善吉が叫ぶ。
「俺の質問の答えになってない! らしくないのも大概にしろ、黒神めだか!」
本気の怒りに、さすがのめだかもたじろいた。びく、と肩が跳ねる。瞳が一瞬虚空をさ迷った。
息を吸っては吐いてを繰り返し、呼吸を整えた善吉が、自分の意志でめだかから目を逸らす事なくゆっくりと言葉を紡ぐ。
「めだかちゃんは醜くない。その身体だって生き方だって、黒神めだかそのものだ。俺はめだかちゃんを醜いと思ったことなんて、一度もない」
「……私は己が身体の美しさを自覚している」
「なら、」
「だが、貴様はモナ・リザの肖像画に欲情することはないだろう?」
「そりゃあ、まあ……」
「同じように、フランケンシュタインの怪物にも欲情しない」
究極の美醜の対比。めだかは己が極論を振りかざしていると自覚していた。しかしそこまで用いらなければ、あの日鏡の中で誰かが叫んでいた言葉は善吉に伝わらない。
「私の身体に継ぎ接ぎの跡などない。私は私自身を恥ずべき者だとは思わない。肉体も、魂も、これから更に磨き上げる努力を惜しまない……理想の人間、ああ、実に皮肉だ」
自分に向けられる称賛の声が全て裏返る瞬間だった。
めだかは服越しに善吉の胸板に指を滑らせる。繊細な皮膚感覚は、しっかりと彼の鼓動を感じていた。
「私はフランケンシュタインだ。怪物を作った学者で、その怪物だ」
か細くめだかが言葉を吐く。善吉が何か言おうと上体を起こしかける。しかしめだかが彼の唇に人差し指を押し付けてそれを制した。
「皆に愛される人間は、愛に飢えているのだ、善吉よ。フランケンシュタインの怪物が欲したものを知っているか?」
「確か……自分と同じ身体の、異性」
「そう、その通りだ。私は自分と同じ存在が恋しくて仕方ないというのに……本当に必要な存在には、私と同じものになって欲しくない」
自分の目から涙が零れていないのがとても不思議だった。掠れながらもこの声は彼の耳に届いていると確信していた。
「その怪物も悲しみと絶望のあまり、海に消える。人魚姫のようにな。善吉、私を海の藻屑にしたくないのなら」
醜くて美しい、私をしっかりと見ろ。
091226
作品名:フランケンシュタインの慟哭 作家名:てい