君のために出来る事
兄の切羽詰まった声に、弾かれる様に振り返る。
苦痛に歪められた笑顔に、ああ、もう限界なのだ、と悟る。
気付かなければよかったのに、と少しの後悔に目を細めた。
「嫌なら、今のうちに、にげろ」
そう言って、僕の手首を握る力を一層強めた。
これじゃあ言ってる事とやってる事が滅茶苦茶だ。
だけど、兄貴はきっと気付いていない。
それが恐ろしくもあり、嬉しくもあった。
「晶馬、俺は、お前が、」
「…うん、わかってる」
ゆっくりと、振り絞るように紡がれる音は、普段の兄からは想像できないか弱いものだった。
頼り甲斐があって、家族の為なら自分が傷付く事など厭わない、勇敢で格好いい兄、尊敬に値する兄、理想の兄。
だけど、それは兄貴の仮面の一つにすぎなかった。
家族を営む為の、たった一つの防御策。
「兄貴、僕は逃げない」
腕を掴まれた時から、名を呼ばれた時から、そう心に決めていたから。
僕は、決して逃げない。例えそれが、世界の歯車を狂わせる事だとしても、だ。
高倉家という絆が壊れない為ならば、周りがどうなろうと知ったことではない。
ふわり、と陽毬のそれに近付く様に微笑むと、ふっと、手首に籠められていた力が抜けるのを感じた。
兄貴がスローモーションのようにそろりと瞳を上げる。
僕は、上手く笑えているだろうか。自信は、ない。
「だから、兄貴は僕を、愛して」
痛い程に、狂おしい程に、壊れる程に。
これは、覚悟。
兄貴が壊れてしまわないように、僕が出来る唯一の事。
いや、僕にしか為し得ない事。
僕が兄貴を求めているように、兄貴にも僕が必要なんだ。
それはひょっとすると、僕以上に渇ききっているのかもしれない。
「晶馬、愛してる。ずっと、ずっとずっとずっと、」
「うん。それで、いいんだよ」
兄貴と同じように床に座り込み、頼りない手をぎゅっと握り締めた。
微かに震えるそれは、僕の体温を奪っていく様に温かさを取り戻していく。
「冠葉、キス、して」
僕は精一杯の見栄で唇を突き出した。
震えているのがバレやしないかと、内心少しびくびくしながら。
だけど、今の兄貴にはそんな事を見透かす余裕すらないようで、僕の虚勢に唇で応えた。
合わさる瞬間、吐息の漏れる音、掌を通して伝わる狂喜の音、間近に感じる兄の存在。全てが僕を麻卑させる。
ぎゅっと目を瞑り、薄い唇の感触を味わう。
カウントされないだろうけど、一度だけ交わした荻野目さんとの人工呼吸と言う名のキスを思い出した。
やっぱり女の子の方が柔らかくて気持ちいいな、なんて考える僕は、いたって普通の健全なる男子高校生なのだ。
現在、兄に愛される事を望んでいる事実を除いては。
「ぁ、」
唇が離されると同時に、軽くとん、と胸を圧される。
僕はいとも簡単に地面に吸い込まれていく。
見上げれば兄の穏やかな微笑みが映る。
「晶馬、愛してる」
今までにない、温和な音色で愛を謳う。
頬をするりと撫でる手に、ぞわりと肌が粟立った。
触れられる事に抵抗があるわけじゃない、寧ろこれを望んでいた節のある心に、何で、どうして、とやるせなさばかりが募る。
身体は受け入れたいのに、心がそれを拒む。
その理由は、きっと―――…。
「僕も、愛してるよ…“あにき”」
それは精一杯の否定だった。
次に生まれ変わった時は、ちゃんと真っ直ぐに、純粋に愛してあげられる存在になれるかなぁ、ううん、なれればいいな、なんて途方もない考えに蓋をして僕は兄に溺れた。