かなしいのです嘘みたいに
背中のくぼみをつたう汗がこまかな傷をにじませるのに気づいて我にかえった。息をきらせた自分のからだは汗みずくであつく、力をこめたままの両手のゆびがわきばらの肌にめりこんで爪あとをきざんでいた。その肌のうっすらと濡れたつめたさにざあ、と背筋から血の気が引くのを自覚する。首筋にまつわるピンクいろの髪の束が、網目のように肩を背をおおうさまがまるで自分のあやつる技のようで、狩屋にはどうしようもなくおそろしく思えた。
霧野についてを考えるとき、かならずつきまとう苛立ちの理由を狩屋は知らない。習い性のようにしみついた作り笑いの裏で、うなりをあげて牙をむく醜悪な悪意のかたまりをいつだってもてあましている。飼いならすにはいまだ自分の器は成熟しておらず、ときおり発露する凶悪な衝動をぶつける先など本当は誰でもよかった。結果それが霧野だったのは、あのときの自分にただひとり、まっすぐぶつかってくる相手だったからだ。
誰も気づかなかった狩屋の二面性にまっさきに疑いをかけてきた。それはつまり霧野が、狩屋を誰よりもよく見ていたからにほかならない。陥れてもいためつけても、霧野は屈さず、なんどでも狩屋に純粋な怒りを向けた。狩屋には新鮮だった。それはこれまで狩屋のまわりにいた人間の、真綿にくるんだ遠まわしのあわれみや、腫れ物にさわるあつかいとは対極に位置する感情だった。
そうしていつのまにか霧野は、自分の内側で狩屋への確執を昇華させてしまった。狩屋は誰にもあやまることなく許されてしまった。信じるといわれ、勝つための重責をあずけられ、言葉通り霧野は狩屋を信じてフィールドを走るようになった。
信じることのおろかしさを思い知っている狩屋に、霧野は正面から馬鹿正直に信頼を向けてくる。それは気恥ずかしいほど悪意なくあたたかで、居心地の悪さを感じるとともにほのかなぬくもりをたしかに狩屋の胸へ残した。溺れてしまいそうなほど、霧野のくれる苦笑まじりの許容はあまやかだった。
だから霧野は自分に対して責任をとらなければならないと思った。
日に焼けぬ背中は存外になめらかで、そのぶん幾重にも散る歯と爪の痕跡がなまなましい時間の証明のようでいたたまれない。こわばったゆびを一本ずつ順にほどいて解放すると、うつぶせた霧野のからだがずるずると床にしずんだ。ミルクティ色の肌。むきだしの肩先からうでにかけてが不規則に震えるのは、霧野が縋るようににぎったクッションにひどく力がこめられているからだ。
子供をあやすように自分の横暴をあしらう霧野が気に入らなかった。苛立ちにまかせてちいさな嘘や挑発を重ね、そのたびにいちいち霧野は怒り、けれどかならず最後は狩屋を許した。なにも取り繕わない素の自分の本性を知りながら、それでもはなれていかなかった同年代の人間なんてはじめてだった。からからにかわいたスポンジが水を吸うように、狩屋は霧野から与えられるばかりのやさしさをむさぼった。
与えられてはじめて自分が飢えていたことに気づいた。飢えてかわいて苦しくてたまらず、そそがれるものをすべて飲み込んでもすこしも満たされなかった。欲しがってうばっても足りずにもっと多くを欲しがって、許されることにあまえて同じくらい、どこまでも許してしまう霧野に苛立ちばかりがつのった。
けれどどれだけ奪おうとも満たされなかった理由を、こんなかたちで思い知りたくなどなかったのだ。
みだれた髪に埋まる蒼白な頬の上、窓から降りおちる夕暮れのオレンジがにじんで涙のながれみちを染める。か細く押し殺した嗚咽はずいぶん長いあいだ続いていた。苦痛にさらされた肢体の頼りないつめたさ。うるんだ脚のつけ根だけが場違いになまぬるく、ひえた頭に追い討ちをかけて狩屋を苛む。なによりも認めがたいのは、こんな惨状に身をひたしながらなおすこしもおさまらないうずきをかかえていることだ。緩和することもできずあわれにひきつれた霧野の腰からしなやかにのびる背筋と、あえかに隆起した肩甲骨にいますぐ噛み付きたくてたまらない。
冷や汗にも近いしずくが青い髪からしたたって霧野の背を流れ落ちる。
もう戻れないのだと、そんな事実だけがたしかに狩屋の胸につきささった。
作品名:かなしいのです嘘みたいに 作家名:ましろ