Radiant Days~Love so sweet
~prologue~
「あ~、緊張する……」
桜が咲き乱れるある春の日。この日に入学式を行う学校も多い。そんな中眩しい朝日が差しこむ一室。
リビングの入口の側に立てかけられた姿見の細長い鏡の前でもう何度目か分からない溜息を零す。
祓魔師の正装を纏ったまま項垂れる兄の姿に雪男は笑いを押し殺すのに必死だった。
あまりにも凝視するのも如何なものかと早々にキッチンの前――カウンターに並んだイスの一つに腰かける。手に持つ新聞を広げ、さっと目を通す。すでに朝食の用意はできていて、目の前に置かれたコーヒーカップに口をつける。ふわりと香ばしい匂いが眠気を消し去ってくれる。
ちらりと傍に視線をやれば、案の定――燐は唸ったままだ。カップと新聞を置き、仕方がないと息を吐く。まったくいつも考えるよりも先に行動する人だったのに月日というものは人の性格さえも変えてしまうものなのか。
神父が死ぬまで、兄は真実を何も知らなかった――。
そんな兄もすでに一人前の祓魔師であり、その名はとどまる所を知らない。
兄が祓魔師を目指していたのはすでに十年近く前のことだ。初めて祓魔塾で顔を合わせた時のことが脳裏に蘇る。
あの時は講師と候補生だった。
あの頃よりも大きくなった背を雪男は目を細めて見つめる。それでも自分と比べれば一回り以上小さい。無謀としか言いようのなかった祓魔師への道のり。兄の身に降りかかった壁は容易いものでなく幾度となく荒波にのまれそうになった。その度に自分と同じ色を宿した瞳を真っ直ぐ前に向け歩み続けた姿は雪男にとってなによりも誇らしく。そして――何より愛しいものとなった。
「――兄さん」
唸り続ける背に向け兄を呼ぶ。振り返った燐は唇をとがらせながら、眉間に皺を寄せていた。立ち上がり、兄の傍に立つ。
「そんなに緊張しなくても――」
「緊張するなってのが無理だ! だいたい俺に講師なんか勤まると思うか! メフィストのヤロ~~~! 何が『いいバイト先を紹介します』だ!」
怒り心頭の兄に苦笑いしつつ、雪男は寝ぐせのついた髪を丁寧に梳いてやる。
相変わらず、身支度というごく一般的なことが苦手なところは変わらない。中途半端に結ばれたネクタイもついでに直しておく。律儀に「ありがとな」と礼を返す兄に頷きを返せばようやく笑みが戻ってきた。
雪男が祓魔塾で講師をしていたのは二年前までだ。高校を卒業し、大学に進むとどうしても時間が限られる。医者になるための勉強と時折入る祓魔師としての仕事を優先させるため講師を辞退したのだ。だが、あのメフィストである。心よく承諾してはくれたが、何かにつけて未だ祓魔塾に呼び出されることも多い。
今日もまた、大学の授業が終わったのち、塾に向かうことになっている。
それはもちろん、兄の補佐をしろということらしい。
「まあまあ、それだけ兄さんの祓魔師としての力を認めて下さっているってことなんだから名誉なことだよ?」
「うう~~、分かってるけどさ……」
「けど?」
視線を雪男からそらし、言い淀む兄に溜息を零す。
数度呼びかければ、ようやく起きてから続く挙動不審な態度の意味が見えてきた。
「俺は、確かに祓魔師だ。でも、さ――」
「――うん」
でも、と続いた言葉に胸を鷲掴みされた気がした。
「どんなに嫌がったとしても青焔魔の力を受け継いでいる事実は変わらない。――そんな俺に、祓魔師を目指す候補生たちを教える資格なんてあんのかな……」
再び俯いてしまった兄を反射的に抱きしめていた。
「雪、男……?」
「またそうやって一人で悩んで――。言っただろ? 頭を使うのは僕だけでいいんだよ。兄さんはいつものようにどんどん前に進めばいい」
「何だよ、まるで俺が向こう見ずだっていいたいのか?」
腕の中から低いうめき声が聞こえてくる。
不満だとじたばたと暴れ出した兄を宥めるためにゆっくりと頭を撫でながら髪を梳けば、徐々におさまりをみせる。そしてゆっくりと背中に回ってきた腕が、雪男のワイシャツをきつく握りしめる。
顔を胸に埋めたままの燐の背をゆっくりと撫でてやれば深い溜息が聞こえてきた。
「――自信、ねえんだよ……。雪男みてーに頭がいいわけでもないし。対・悪魔薬学の天才って呼ばれてるお前みたいに候補生たちに教えてやれることなんて何ひとつないんだ……。そんな俺が講師なんて――」
兄の本当の悩みはそこだろう。
ようやく見えた兄の心に雪男は笑みを浮かべた。
(変なところで真面目なんだから)
くすくすと笑いを零せば、ようやく顔を見せた兄が不機嫌そうに睨みつけてくる。
その姿さえも可愛いとしか思えない。
「あのね、兄さん。――誰も僕と同じことなんて求めてないよ」
「悪かったな、出来の悪い兄貴で」
ふんと横を向いた燐の頬に軽く触れるだけのキスを数度落とせば、くすぐったいと身を竦ませ腕の中から逃れようとする。
だが、逃がしてなどやるものか――。
「ほら、拗ねない、拗ねない。そうだね、たとえば僕がしえみさんと同じように植物と心を通わすことが出来ないのと同じだよ。僕には僕にしか出来ないことがあるように、しえみさんにはしえみさんにしか出来ないことがある――」
こちらを見上げてくる兄の額にキスを落としながら囁く。
「兄さんにも、兄さんにしか出来ないことがあるだろう? 例えば、悪魔と対話するなんてそれこそ兄さんにしか出来ない。――これまで兄さんが培ってきた経験をそのまま候補生たちに伝えればいいんだよ。だから、フェレス卿も兄さんに講師を頼んだんじゃないかな?」
悪魔の力を受け継ぎながらも養父と同じそれと闘う祓魔師となった燐。その決断だけでも候補生たちに大きな影響を与えるだろう。そして、今も立ち止まることなく歩み続けるその姿、前を見据え続ける眼差しこそが、何より候補生たちを導くものとなるに違いない。 燐の前髪を掻き上げ未だ深く皺の寄った眉間の上に唇を落とす。そして身体を離し、時計を指差す。
「ほら、もう時間だよ。早くいかないとまたフェレス卿に叱られるよ」
「――分かってるよ、いちいちうるせーな。もう……」
そう言いながら腰に下げた鍵の中から一つを持ち上げた燐が玄関に向い歩き始める。
見送るために雪男もまた玄関に向かう。
玄関のカギ穴に差し込んだ先、そこはすでに祓魔塾へと繋がっている。
ゆっくりと扉を開く背中に向け、見送りの言葉を呟いた時だった。背を向けたまま名を呼ばれる。
「――雪男」
「何?」
「――――名前」
「え……?」
「……俺の事、名前で呼ぶんじゃなかったのか?」
見えた兄の耳が真っ赤に染まっていた。
それに気づいた瞬間、雪男は口元を手で覆っていた。
――本当にこの人はどこまで人の心をかき乱してくれるのだろうか。
湧き上がるのは熱い鼓動と愛おしさと。
今すぐ抱きしめたいと思う素直な感情――。
ゆっくりと息を吐き、心を落ち着かせる。
これが朝でなければどうなっていたか目の前の愛しい人は理解しているのだろうか?
(いや、絶対気付いていないだろうな……)
そして、微笑みを浮かべ囁く――。
「――絶対大丈夫だから。いっておいで、”燐”」
「あ~、緊張する……」
桜が咲き乱れるある春の日。この日に入学式を行う学校も多い。そんな中眩しい朝日が差しこむ一室。
リビングの入口の側に立てかけられた姿見の細長い鏡の前でもう何度目か分からない溜息を零す。
祓魔師の正装を纏ったまま項垂れる兄の姿に雪男は笑いを押し殺すのに必死だった。
あまりにも凝視するのも如何なものかと早々にキッチンの前――カウンターに並んだイスの一つに腰かける。手に持つ新聞を広げ、さっと目を通す。すでに朝食の用意はできていて、目の前に置かれたコーヒーカップに口をつける。ふわりと香ばしい匂いが眠気を消し去ってくれる。
ちらりと傍に視線をやれば、案の定――燐は唸ったままだ。カップと新聞を置き、仕方がないと息を吐く。まったくいつも考えるよりも先に行動する人だったのに月日というものは人の性格さえも変えてしまうものなのか。
神父が死ぬまで、兄は真実を何も知らなかった――。
そんな兄もすでに一人前の祓魔師であり、その名はとどまる所を知らない。
兄が祓魔師を目指していたのはすでに十年近く前のことだ。初めて祓魔塾で顔を合わせた時のことが脳裏に蘇る。
あの時は講師と候補生だった。
あの頃よりも大きくなった背を雪男は目を細めて見つめる。それでも自分と比べれば一回り以上小さい。無謀としか言いようのなかった祓魔師への道のり。兄の身に降りかかった壁は容易いものでなく幾度となく荒波にのまれそうになった。その度に自分と同じ色を宿した瞳を真っ直ぐ前に向け歩み続けた姿は雪男にとってなによりも誇らしく。そして――何より愛しいものとなった。
「――兄さん」
唸り続ける背に向け兄を呼ぶ。振り返った燐は唇をとがらせながら、眉間に皺を寄せていた。立ち上がり、兄の傍に立つ。
「そんなに緊張しなくても――」
「緊張するなってのが無理だ! だいたい俺に講師なんか勤まると思うか! メフィストのヤロ~~~! 何が『いいバイト先を紹介します』だ!」
怒り心頭の兄に苦笑いしつつ、雪男は寝ぐせのついた髪を丁寧に梳いてやる。
相変わらず、身支度というごく一般的なことが苦手なところは変わらない。中途半端に結ばれたネクタイもついでに直しておく。律儀に「ありがとな」と礼を返す兄に頷きを返せばようやく笑みが戻ってきた。
雪男が祓魔塾で講師をしていたのは二年前までだ。高校を卒業し、大学に進むとどうしても時間が限られる。医者になるための勉強と時折入る祓魔師としての仕事を優先させるため講師を辞退したのだ。だが、あのメフィストである。心よく承諾してはくれたが、何かにつけて未だ祓魔塾に呼び出されることも多い。
今日もまた、大学の授業が終わったのち、塾に向かうことになっている。
それはもちろん、兄の補佐をしろということらしい。
「まあまあ、それだけ兄さんの祓魔師としての力を認めて下さっているってことなんだから名誉なことだよ?」
「うう~~、分かってるけどさ……」
「けど?」
視線を雪男からそらし、言い淀む兄に溜息を零す。
数度呼びかければ、ようやく起きてから続く挙動不審な態度の意味が見えてきた。
「俺は、確かに祓魔師だ。でも、さ――」
「――うん」
でも、と続いた言葉に胸を鷲掴みされた気がした。
「どんなに嫌がったとしても青焔魔の力を受け継いでいる事実は変わらない。――そんな俺に、祓魔師を目指す候補生たちを教える資格なんてあんのかな……」
再び俯いてしまった兄を反射的に抱きしめていた。
「雪、男……?」
「またそうやって一人で悩んで――。言っただろ? 頭を使うのは僕だけでいいんだよ。兄さんはいつものようにどんどん前に進めばいい」
「何だよ、まるで俺が向こう見ずだっていいたいのか?」
腕の中から低いうめき声が聞こえてくる。
不満だとじたばたと暴れ出した兄を宥めるためにゆっくりと頭を撫でながら髪を梳けば、徐々におさまりをみせる。そしてゆっくりと背中に回ってきた腕が、雪男のワイシャツをきつく握りしめる。
顔を胸に埋めたままの燐の背をゆっくりと撫でてやれば深い溜息が聞こえてきた。
「――自信、ねえんだよ……。雪男みてーに頭がいいわけでもないし。対・悪魔薬学の天才って呼ばれてるお前みたいに候補生たちに教えてやれることなんて何ひとつないんだ……。そんな俺が講師なんて――」
兄の本当の悩みはそこだろう。
ようやく見えた兄の心に雪男は笑みを浮かべた。
(変なところで真面目なんだから)
くすくすと笑いを零せば、ようやく顔を見せた兄が不機嫌そうに睨みつけてくる。
その姿さえも可愛いとしか思えない。
「あのね、兄さん。――誰も僕と同じことなんて求めてないよ」
「悪かったな、出来の悪い兄貴で」
ふんと横を向いた燐の頬に軽く触れるだけのキスを数度落とせば、くすぐったいと身を竦ませ腕の中から逃れようとする。
だが、逃がしてなどやるものか――。
「ほら、拗ねない、拗ねない。そうだね、たとえば僕がしえみさんと同じように植物と心を通わすことが出来ないのと同じだよ。僕には僕にしか出来ないことがあるように、しえみさんにはしえみさんにしか出来ないことがある――」
こちらを見上げてくる兄の額にキスを落としながら囁く。
「兄さんにも、兄さんにしか出来ないことがあるだろう? 例えば、悪魔と対話するなんてそれこそ兄さんにしか出来ない。――これまで兄さんが培ってきた経験をそのまま候補生たちに伝えればいいんだよ。だから、フェレス卿も兄さんに講師を頼んだんじゃないかな?」
悪魔の力を受け継ぎながらも養父と同じそれと闘う祓魔師となった燐。その決断だけでも候補生たちに大きな影響を与えるだろう。そして、今も立ち止まることなく歩み続けるその姿、前を見据え続ける眼差しこそが、何より候補生たちを導くものとなるに違いない。 燐の前髪を掻き上げ未だ深く皺の寄った眉間の上に唇を落とす。そして身体を離し、時計を指差す。
「ほら、もう時間だよ。早くいかないとまたフェレス卿に叱られるよ」
「――分かってるよ、いちいちうるせーな。もう……」
そう言いながら腰に下げた鍵の中から一つを持ち上げた燐が玄関に向い歩き始める。
見送るために雪男もまた玄関に向かう。
玄関のカギ穴に差し込んだ先、そこはすでに祓魔塾へと繋がっている。
ゆっくりと扉を開く背中に向け、見送りの言葉を呟いた時だった。背を向けたまま名を呼ばれる。
「――雪男」
「何?」
「――――名前」
「え……?」
「……俺の事、名前で呼ぶんじゃなかったのか?」
見えた兄の耳が真っ赤に染まっていた。
それに気づいた瞬間、雪男は口元を手で覆っていた。
――本当にこの人はどこまで人の心をかき乱してくれるのだろうか。
湧き上がるのは熱い鼓動と愛おしさと。
今すぐ抱きしめたいと思う素直な感情――。
ゆっくりと息を吐き、心を落ち着かせる。
これが朝でなければどうなっていたか目の前の愛しい人は理解しているのだろうか?
(いや、絶対気付いていないだろうな……)
そして、微笑みを浮かべ囁く――。
「――絶対大丈夫だから。いっておいで、”燐”」
作品名:Radiant Days~Love so sweet 作家名:sumire