呪文
久々に兄貴に会った。昼の人々の熱気も冷めやらぬまま再び夜に熱する池袋のど真ん中で、彼は身長と金髪のせいか、ひどく目立っていた。気付くように正面に立ち、真っ直ぐ見上げた。目が合うと、彼はぱっと笑って自分の名前を呼んだ。よう、幽。その声に安堵した。
丁度仕事が終わった頃だったらしい。こんな所で立ち話もなんだしな、と言われ、そこから近い公園へ行った。昼間よく晴れていたせいか夜空がやたら綺麗で、兄貴がそれに気付き感嘆の声を子供の様に洩らすのを横目に、自分もじっと見詰めた。昔のいつかに彼と読んだ、星座早見の本をふと思い出した。あれで見たままの空が、そこに広がっていた。デネブ、アルタイル、ヴェガ。
自分がベンチに座ったのに対し、兄貴はすぐ近くの少し薄汚れた兎の乗り物をじっと見つめた。動物が好きなのは、昔から変わっていないらしい。座ったらと促すと、流石に跨ぎはしなかったものの(それはそれで遊具の重量オーバーだ)、兎に横座りのような、寄り掛かったような体勢になった。
会って、他に話したいことの数々が喉元までせり上がってくるのを押さえ、一番先に話さなければいけないことを話した。
俺、芝居をやってみようと思う。
どんな反応が返ってくるのか、予想がつかなかった。こうしたい、という意志を持ったことも、ハッキリ表明した覚えもなかったし、今までそれで充分だった。だから、正直、自分にとってそれが本当にやりたいことなのか、言い出した手前、疑いの気持ちすらあった。これが本当に自分の意志なのだろうか、だとしたら、彼はどう思うのだろうか、と。
しかし兄貴は、少し驚いていたが、その後あっけらかんと言った。すげえ、良いじゃねえか、芝居。
それは、例えばテレビや映画のきらびやかな映像の類いを連想する憧れからなのか、あるいは、今まで明確な意志表明をしなかった弟が、ようやっと自分のやりたいことを見付られた、ということを喜んでくれているのか。兄貴だから、きっとそのどちらもだろう、と思う。
そこから詳しいことを、兄貴は聞かなかった。どうやってだとか、本当にやっていけるのかだとか。代わりに、俺も頑張るっきゃねえな、と呟いた。それは、信頼されているからだと受け取っても良いのだろうか。そうだったらそれは、とても嬉しいのだけど。
そうか、幽が芝居か。ってことはああなるのか。そこから兄貴は、昔観て好きな映画スターの名前を挙げていった。多くは知らないのに、アクションスターばかりで、思わず少し笑う。他愛のない話が続く。
不安ならある。今まで知らなかった、漠然とした不安。自信がないわけじゃない。だけど誰も分からない、一寸先の闇か光かなんてことは。
なれたら良いな。それまでは、迷惑かけるかもしれないけど。
すると、真っ直ぐ目を見据えて兄貴は言った。迷惑なんてあるか、と。
それは、いつか母さんからも聞いた言葉。
「俺とお前は、世界で2人だけの兄弟だ」
いつだって覚えている。その日のこと、そして、呪いでも構わない、呪いなんかより、ずっと優しく強いその言葉を、自分はきっと生涯忘れない。