奥村雪男の愛情
風が吹いていて、その風はまだ少し冷たい。
雪男は橋の上にいた。二段の回廊の天辺にある橋だ。
自分の他に、だれもいない。
空は淡い青色で、その下に正十字学園町が広がっている。
遠くに高校進学まで雪男と燐が暮らしていたあたりがあって、それを高い橋の上から眺める。
なにも考えたくない。頭の中を空っぽにしてしまいたい。
寂しさも、胸の痛みも、感じないようにしたい。
……もうしばらくここで時をすごして心が落ち着いてきたら、日常にもどろう。
他の者より少し親しかった者が職場の異動で海外に行った、それ以上のことではないような顔が作れるようになったら、燐たちのいる場所にもどろう。
大丈夫だ。
あともう少しすれば。
雪男は自分の胸にそう言い聞かせた。
ふと。
気配を感じた。
だれかが来たらしい。
雪男はそちらのほうを向く。
そして。
「!」
自分の眼を疑った。
信じられなかった。
そこにいないはずの人がそこにいた。
その人が近づいてくる。
「……ど、どうして」
近づいてくるにつれ、これが現実だとわかり、心の中の疑問がいつのまにか雪男の口から出ていた。
「ヴァチカンに行ったんじゃないんですか、シュラさん」
シュラが立ち止まった。いつものように笑ってはいない。やや堅い表情だ。
それから、シュラはボストンバッグからなにかを取りだした。
コピー用紙らしい紙が何枚か重ねられて折りたたまれている。
「おまえらと別れたあと、しばらくして、燐が追ってきて、これをアタシに渡した。絶対に読んでくれって言って」
そういえば、塾生たちとシュラを見送ったあと急に燐が用があるのを思い出したと言ってどこかに行ったのを、雪男は思い出した。
「なんですか、それ」
「燐がおまえのパソコンを見たとき、わざとじゃなく違うファイルを開いてしまって、これを読んだそうだ」
シュラは折りたたまれた紙を開いた。
紙に印字されている文章が、眼に飛びこんでくる。
雪男はぎょっとした。
その文は自分が書いたものだ。
ただし、だれにも読まれないことを前提にして書いたものである。
書くことで、自分の気持ちを少しでも整理したかった。
渡すつもりのなかった、恋文。
それを燐がたまたま読んでしまったらしい。
そして、燐はそれを印刷し、シュラに渡したのだ。
読まれるはずのなかったものだが、この恋文の宛先は、間違いなく、シュラだったから。
恥ずかしいと雪男は思った。
だれの眼にも触れないはずだったから、自分の中にある想いを書きたいだけ書いた。
それを読まれたなんて。
今すぐ逃げだしたいぐらい恥ずかしい。猛烈に恥ずかしい。
でも。
なぜ、シュラはこれを読んで、もどってきたのだろう。
読んで、しかし、無視することもできたはずだ。
それに。
いつかまた逢ったときにはきっと言うつもりだったことがある。
雪男は恥ずかしさを振り払うように顔をあげた。
眼が合った。
「シュラさん」
強い声で言う。
「そこに書いてあることは、全部、本当のことです。僕の本当の気持ちです。それを書いたのは、書いて終わりにするためじゃない。僕がもっと強くなってから伝えようと思っていたからです」
今の自分はまだまだで伝えられないと判断した。
だけど、シュラは知ってしまったし、しかも知ったシュラがもどってきたのだ。
もう、ごまかしようがない。
シュラに対しても、自分の心に対しても。
だから、ちゃんと伝えたい。
「僕はあなたが好きです」
シュラの心に届くように願いつつ、告げた。
そして、返事を待つ。
しばらくのあいだ、シュラは黙っていた。
だが、やがて、その口を開いた。
「アタシはおまえよりずっと年上だ」
「知ってます」
「……アタシは」
ふと、シュラさんは眼をそらした。眉根が寄せられる。つらそうな、悲しそうな表情。
「アタシは闇持ちだ。心の中に闇がある」
その顔は伏せられた。
雪男はうつむいているシュラをじっと見る。
フェレス卿が見せてくれた写真が頭に浮かんだ。暗い眼をした少女の写真。
あの写真が撮られる以前は過酷な状況にあったという。
過去は消えない。それがシュラの中で重石になっているのを、感じ取った。
「……シュラさん」
雪男は穏やかな声で呼びかけた。
「こんな若造の言うことなんて信じられないかも知れないけど、僕はあなたと生きていきたい」
大切にして、生きていきたい。
その相手に自分は他人より早く出会っただけだと思っている。
「だから、あなたと一緒に歩いていけるぐらいに、あなたが寄りかかってきても大丈夫なぐらいに、僕は強くなる」
「強くならなくてもいい……!」
シュラが顔をあげた。
こちらを見ている、その眼が潤む。
次の瞬間、その顔がゆがんだ。
涙がこぼれ落ちた。
泣くのを、初めて見た。
胸になにかがジンときて、広がっていくのを感じる。
雪男は足を踏みだし、距離を詰め、そして、手を伸ばした。
抱き寄せる。
すると、シュラがもたれかかってきた。
その身体を、愛しい相手の身体を、雪男は抱きしめた。