美しき肉塊
うわ。丁度地下室から出てきた姿に、ジャンは階段を降りる足を止めた。
「おはようございます、ハンジさん」
「おはよう」
挨拶を返すハンジの手には長い槍が握られていた。この間生け捕りにした6m級巨人の実験に使うのだろう。ジャンは彼女が苦手である。巨人に対し愛情と紛うような妄執をしている変人のくせに、時折妙に聡いのが油断ならないのだ。
「内地からは遠いでしょ? 本当にエレンのこと好きなんだね」
――前言撤回。変人な上、こんな根も葉も無いことを言い出すのが気に食わない。
「……違いますよ。ただミカサが怪我したっていうからその見舞いのついでに」
「ふーん? じゃあ私エドと話してくるから、出るときはちゃんと鍵かけてね」
ジャンの言葉に興味無さそうに返すと、件の巨人との“会話”が待ちきれないのか階段を駆け上って行った。彼女らしい態度に溜め息をつくと共に、それが調査兵団にいた頃から変わらぬことに少し安心感を覚えた。
ジャンは階段を再び降り始めた。空気が冷たく湿ってゆく。冷気が首筋を這う感覚は壁外の森での、夜を思い出す。生き物の今際の断末魔の残響が延々と残っているかのような、そんな感覚。
ギイと軋んだ音を立て地下室の扉を開ける。地下室の中には自分より頭ひとつ分高い棚がいくつも並んでいる。ここには実践では使えないような原始的な武器が置いてあり、人の出入りは少ない。ほとんど倉庫のようなものだ。
その、槍だか斧だかが無造作にかけられている奥に、彼はいる。
「……よう、死に急ぎ野郎」
ジャンは、美しい肉の塊が浸けられている瓶の前で立ち止まった。
それは淡い桃色をした心臓だった。腐敗を防ぐための液体に長く浸かったせいで血の色の筋は失せている。ところどころ穴が空いてしまってはいるが、様々な薬品実験をされたとは思えないほど綺麗な保存状態だ。激しやすく、いつも何かと怪我をしていたエレンの胸に納まっていたとは思えない。
冷たい地面に腰を下ろし棚の一番上にある瓶を見上げる。四年前、彼が巨人に頭から食われた後は色々なことがあった。彼の周囲にいた人々も、環境も、慌ただしく変わっていった。
ジャンは、憲兵団に転入した。
「この前、ミカサが怪我したんだ。リヴァイ兵長がフォローしたおかげで掠り傷で済んだらしい。一匹仕留めたが、命令違反でしばらく任務参加禁止だと。ミカサがだんだんお前みたいな命知らずになってきてる気がして心配だ……まあそりゃあお前とは比べ物にならないくらい優秀だけどな。ああ、アルミンがアイディア出した新しい立体起動の試作品、調査兵団にいる奴らが使ってみたらしいぞ。空気抵抗が少ないって、ライナーみたいな体がでかい奴らに好評だった。あいつ自身体ちいせえ割にすごいよな。サシャは相変わらずバカやってるっていうかバカだ。ついでにコニーもバカも身長も変わってない。よくまあ調査兵団にいたままバカでやっていけるよな……、」
久し振りに会った同期生たちの近況を揚々と語っていた声が、次第に小さくなってゆき、やがて途切れた。年々減りゆく同期生たちを思い出し悲しくなったのではない。恐怖と無念を顔に貼り付けたまま死んだエレンを思い、泣きそうになったわけでもない。
ジャンの言葉を途切れさせたのは、何物ともつかない、灰色の感情の塊だった。
「お前は俺に憧れていたんだ」
ぽつり、と呟く。
四年前は絶対に言わなかった言葉を。
「多分、お前のことが好きだったんだろう」
エレンが死に、彼の周囲にいた人々はひどく悲しんだ。特にあの姉のようだった少女の悲しみは想像を絶していたであろう。ジャンも悲しんだ。彼なりに悲しんで、少しだけ泣いた。それから、ああきっと自分は彼に憧れていたのだと。彼に恋にも似た感情を抱いていたのだと。そう理解し、受け入れた。
それは成長だった
そして、ジャン自身の喪失でもあった。
「ああ、そうだ、俺はお前のことが好きだったんだ。いや違う、好きだったのはミカサで……でもお前に憧れていたことは確かだ。恐れを乗り越えて巨人を殲滅するなんて言えるお前に。俺はお前ほどバカにはなれないただの臆病者だったから。でも妬ましくもあったんだ……そのバカさ加減や、何よりミカサに好かれて気にも留めてないお前がな。羨ましくて仕方なかった。バカだろ。でも俺はお前が……」
自分自身に言い聞かせるように、必死で語っていた言葉は続かない。続けようがない。ジャンは知らないのだ。もう。
彼の死は確かに大きな悲しみを生んだ。未だ知らぬ海の量ほどの涙を流させ、多くのものを変えた。だがそれらは既に過去形だ。時の風は、人々の涙を乾かし、萎びた足で歩もうとする背中を押し、瘡蓋で傷跡が膿むのを防いだ。
ジャンは呆然とした。瓶の中でものも言わず漂っているそれは、ジャンにとって美しい肉塊だった。生命の即物だった。
少年の頃の心の残骸だった。
「……」ジャンは無言で立ち上がった。今日は休みだが、帰るのが遅くなると内地にいる恋人にあらぬ疑いをかけられるかもしれない。わがままで自分勝手で時折不誠実だが、失い難い恋人なのだ。多分。尻についた埃を払い、物々しいだけの刃の間々を歩んでゆく。
扉を開ける前、ジャンは振り返った。斧の鈍い輝きの奥に見える、尊き心臓が納められた瓶を。
彼の心を寂寞が過った。が、それは一瞬だった。
感傷に浸る暇もなく、ジャンは扉を開け、地下室を出た。
そして軋んだ音が止んだ時、地下室は闇に閉ざされた。