貴方に酔う
だらりと緩んだ空気が、今宵の寝苦しさを暗に示していた。
痛む右のこめかみをそっと手で抑え込むと、その痛みがじわりと拡散されていく。
こんな夜は、感覚が鈍る。だから。そう、だからだ。
決して自然ではない、些細な気配にすら気付けなかった。
「よう」
月の光を集めたような銀色の髪の毛が、暗闇に浮かびあがるその光景は、一言で言うならば嵐の前の静かな夜のような、それほどの妖しい魅力を秘めていた。
我を忘れるほど強く魅かれた、でもそれは、決して認めてはならない感情なのだとよく知っている。
怖いもの見たさ、まさにその通りなのだと、半ば自棄になった暴走気味の思考回路が行き着いた結論に、思わず自嘲した。
「夜の散歩なんて、風流ですねぇ、万屋の旦那」
「そちらは見廻り?精が出るねえ、感心しちゃう」
人を食ったような笑みを浮かべ、右手をかざす。覇気のない表情は、いつものことだ。
けれど今夜は、なぜだかひどく自分の心がざわついた。
夜の匂いに紛れて、微かに自分の鼻孔をくすぐるのは、酒の匂い。
風のない夜だというのに、それはまるで、相手の存在を主張するかのように香る。その匂いだけで、酔ってしまいそうだった。
「酒も程々にしねえと、体に障りますぜぃ…もう若くなさそうなんだし」
つい憎まれ口を叩いてしまうのは、きっと、自分の気持ちを誤魔化したいからだなんて。
誤魔化さなければならないような気持ちなど、いつから抱いていたと言うのだろう。
「失礼だなー、これでもまだ若いんだぞ、俺はぁ」
こちらへと向かってくる、ふらふらとおぼつかない足取りは、まるで綱渡りを見ているようだった。
だから、そればかりに気を取られていたのだ、そうだ、そうでなければ、相手の腕が自分の肩に回されたことに気付かないわけがない。
それはまるで自然で、疑うことさえ場違いな気分にさせるほどだった。
耳元に感じる吐息。
それは淀んだ蒸し暑い空気に負けないほどの熱を含む。
そして自分の体もまるで、その熱に溶けてしまいそうなほど火照っていた。
心臓が早鐘を打ち始め、それは痛みを伴い、息苦しさを齎す。
呼吸さえも儘ならなくなっていく自分の愚かしさを今はただ、相手に気付かれぬように抑えるのが精一杯だった。
しかし、この男は、要らぬことには人一倍、目敏く鼻が利く生き物なのだということを失念していたわけではない。
けれど既に時は遅過ぎた。
「どうしたの、沖田くん?なんだか苦しそうだけど」
その声には、完全に揶揄が含まれていた。
思わせぶりに蠢く指先は、自分の頬を下から上へとなぞり上げる。
瞬間、びくりと肩を震わせてしまった自分をいくら罵ったところで、最早どうすることもできない。
観念するしか、いまの自分に残された選択肢はそれしかなかった。
「酒くせーんですよ」
無駄だと知りつつ、それでも最後の悪あがきとばかりに抵抗を試みる。
しかしそれは、本当に無駄な抵抗だった。
「ふーん?」
自分のその一言が、相手に火を付けてしまったのだと気付いたときには、すでに相手の手のひらの中に自分は閉じ込められていた。
低い声音が耳元をくすぐる、それと同時に頬に感じた生暖かい感触。
ぬめったそれが、相手の舌先だと気付くまでの数秒間、唇は当に侵食されていた。
こじ開ける様に舐められ、僅かな隙間からするりと入ってきたそれを頑なに拒むと、首筋を撫でる柔らかな手の感覚に、つい力が緩む。
その隙をついて絡めとられた自分の舌。何度も何度も甘噛みを繰り返され、その度に噛まれた部分を舌先で撫でられる。
無我夢中だった。
暗闇に響く淫猥な水音さえ、自分を昂らせる要因にさえなっていた。
息苦しさに相手の背中を叩く。
それを合図に、ゆっくりと相手の温もりが遠ざかっていった。
乱れる息の自分とは裏腹に、余裕を放つ相手の笑みが憎い。
手の甲でべとべとになった口元を強く拭うと、相手はあからさまに眉を顰めた。
「何それ、何気に傷付くんですけどー」
「酒の味がする…」
声が上擦っていたのは、もうこの際どうでもよかった。
眩暈が視界を阻み、やがて思考をも閉ざしていく。
それはまるで、二日酔いのような感覚。
きっと、相手の酒気が自分にも及んだのだと、思わず舌打ちをする。
「そんなに嫌だった?」
落ち込んだような声に顔を上げると、相手の曇る表情に、胸が痛む自分。どうかしている。
そして気付いた自分の変化に、後戻りの出来ない道を振り返るような想いで拳を握り締めた。
眩む視界は、何も酒のせいでも何でもなかった。
そうだ、自分は。
相手の存在そのものに、酔っていた。