不確かなぬくもり
最近は家に帰るたびに困惑する。
「お帰り、ネズミ」
この通り、わざわざ出迎えられる。毎日毎日ご苦労なことだ。
転がり込んできた頃は子ねずみ以上におびえていたというのに、いつの間にかここに慣れ始めている。見かけによらず意外に順応能力があったらしい。グズグズと泣かないところは助かるが、口うるさいのには閉口する。
「外は寒かった?」「髪が乱れてるよ」「怪我してないよね」「今日はスープがあるんだよ」「ご飯食べよう」。
次から次へと言葉が降りかかって頭がクラクラする。
一人で住んでいた頃、誰も自分の邪魔をしなかった。好きなときに食事をして、気が向けばハムレットたちをかまって、イヌカシをからかって、歌を歌って、眠った。誰も文句は言わない。
それが今では、珍しい白髪の坊ちゃまがこれでもかとばかりに言葉の雨を降らす。おかげで部屋の中は言葉の洪水だ。たまに静かだと思えば、うたた寝中で、ため息しか出ない。
体中にミミズ腫れよりひどい傷痕を持ち、髪は白くて、身体は細く、力は弱い。時々悔し紛れに睨みつける涙のにじむ瞳だけがきつかった。そこには生にしがみつくしたたかさが確かに存在していて驚く。こんな弱さで生に執着しているとはご立派な。死んでも仕方ないと諦めていれば可愛げがあるものを。
「ネズミ、聞いてる? お帰り」
「ああ」
自分はともかく、足元に散らばる本を器用に避けながらよろけもせずについてくる。最初はつまづいてばかりいたのをからかったのに。確かな足取りがなぜか気に入らない。
「お、か、え、り」
生返事を返していたら、後から耳を引っ張られた。振り返って睨んでも平気な顔だ。いつの間にそんなにずうずうしくなったんだ。
「お帰りってば」
「はいはい、ただいま」
「おはよう」「おやすみ」「ただいま」「いただきます」「ごちそうさま」。
この一言一言に異常にこだわる心理について誰か俺に教えてくれ。一人でこだわっていればいいものを人にまで強要するのはいただけない。俺が口にしようがしまいが、朝は来るし、夜は更けるし、食い物が倍になることはない。
「ネズミは人が話しかけてもちゃんと返事しないからダメだよ」
あげくの果てにこの言い草だ。俺がお前にダメ出しされるなんて終わってる。
「外は寒かった?」
「寒かった」
「髪が乱れてるよ」
「どうでもいい」
「怪我してないよね」
「してない」
「スープがあるんだよ」
「へぇ」
「ご飯にしよう」
「ああ」
すべてに返事をして、ようやく紫苑はにっこり笑った。肩にハムレットがちょこんと座っていた。ヤツラは紫苑がお気に入りだ。柔らかな指先が珍しいからだろう。ここじゃ誰もが固くて荒れた指をしている。
紫苑が火をおこしていたので部屋は暖かく、ネズミは上着を脱いだ。
外で北風が吹いていようと寒い部屋に帰ってくることはなくなった。それがどうだと言うわけではないが違和感はある。
あの日からずっと一人で生きてきた。人を信用することなど微塵も考えず、絶えず気を張って、人を頼れば墓穴を掘る。ここではすべてが金と交換される。優しさも、温かさも、柔らかさも。
紫苑がやってきてから、生活リズムは狂わされっぱなしだし、同じ部屋に他人がいることに慣れたようで慣れない。狭い部屋で動けば、すぐに身体のどこかが誰かさんに当たる。なんとなく眉間にしわは寄るがそれだけだし、紫苑も何も言わないからあいつにとっても大したことではないんだろう。
夜中にふと目を覚ませば目の前にあるのは紫苑の顔で、身体は互いの体温を分け合うかのように寄り添っている。一緒に寝るのは趣味じゃないが目くじらをたてるほどのことでもない。寝相も悪くない。妙な具合になったものだ。
「あんたはいったいなんなんだろうな」
「なんか言った?」
無意識のうちに言葉にしていたらしい。首をかしげた紫苑がスープ椀を持って立っていた。
クラバットが身体を駆け上がってくるのを右手で迎えながら「何も」と答えた。
ぬくもりは人を弱くする。ネズミはそう信じていたが、紫苑の温かさがじわりじわりと身体を侵している気がする。それを容認し撥ねつけていない自分は弱くなるんだろうか。
死ぬのなら誰かに見取られるのではなく、見捨てられて死にたい。惜しまれるのではなく、清々したと吐き捨てられたい。いっそ、ずたずたに殺されたい。ナイフで刺されるなんて最高だ。
そして気づいた。
「あんたならできるかもな」
スープ椀を受け取りながらネズミは言った。
「そうかもね」と肩をすくめながら紫苑が言うのに、ネズミはにやりと笑った。紫苑は時々前後不明の話を突然ふられても驚きもせずに適当に返事をする。それがネズミには愉快だった。
それに今回は「あんたなら俺を殺せるかもな」の答えが「そうかもね」だ。愉快以外の何があるだろう。今はまだねんねの赤ん坊だが将来に期待して、あんたに殺される日を楽しみに待つことにしよう。
ネズミは光の加減で紫に見える紫苑の瞳をまっすぐに見つめて「いただきます」とわざとらしく口にした。指に伝わるスープ椀の温かさがいつか紫苑の手を濡らす自分の血の温度のような気がしてゾクゾクした。