1109、そして
東と西を隔てていた分厚い壁がなくなって、いくらか年が経った。国であるかれらにとってはまだ、数年むかしのことのようであるのに、ひとにとってはいつしか、もうずっと過去のことと化してしまっていた。かつて死を目の当たりにしながら、相当に腹をくくって渡った西の側へは、好きに行き来できるようになったし、岩のひとかけらさえ砕こうとしていた壁の一半は、今や記念碑として観光客のポラロイドにずんぐりとして写っている。今をいきるひとびとにとっては、もうすべて過去のはなしなのだ。それでもプロイセンは、あの日、歓喜を上げ、涙を流しながら検問所へ向かうひとびとの足音を、きっと忘れないだろう。
頬をさす冬の冷たい空気、白くかすんだ息をはあと吐き出す。こちらからもあちらからも、恋人か、家族か、はたまた友人か、誰かの名前を叫ぶ声、泣きじゃくる少女、歌いだす大人たちの声がこだましている。そのなかに自分もいた。夜空に反響する声にまじって、幾度もヴェスト、と叫ぼうとしたのに、喉が詰まってそのたった一言さえ出ない。焦燥する。乾いた空気ばかりを吸い込んで、喉の奥のほうに刺すような痛みを覚える。ぼんやりとして見えないほどの前方で、わあっと歓声が上がった。人の波が西側へながれはじめた。開いたのだ。…ヴェスト!詰まっていた喉の痞えが突然下りたように、声があがった。人ごみをかき分けて、幾度も幾度も叫ぶ。押され、引かれながら、ドイツの姿を探していた。まだ西側の人間は見えない。前方のひとびとさえどうなっているのかわからないほど検問所から遠いところに、プロイセンは、いた。いらだちがつのる。ヴェストは、ヴェストはどこだ。二十年以上もふれることさえかなわなかった、自ら接触を断つような形で別れてしまったおれの弟は。プロイセンは血眼になって手を伸ばす。わずかに錆びかかっている、張り巡らされた有刺鉄線が視界にはいりこんでくる。東ドイツである自分が、西ドイツをかたくなに拒絶した痕跡である。胸がすんとおもくなる。かき消すようにくちびるを噛んで、ヴェスト、とまた叫んだ。掠れ切った声は限界に近い。検問所がそろりそろりと近づいてくる。あらゆるものを押しのけてゆきたい気持ちを必死におさえこむ。もうすぐだ。検問所のドアに腕が掠めた。白く上がる息が短くなる。兄さん、兄さん!人よりも一つ分高い頭が人ごみのなかに見えた。余程急いできたのだろう、撫でつけられた前髪から、幾筋短い毛がはねている。プロイセンの目の色がかわる。ヴェスト、ヴェスト…!そうしてやっと触れた弟の手は、冷たく震えて、まっしろだった。ヴェスト、やっと、やっと。ようやっと絞り出した声は、いつか壁を取り払った日、こう言ってやるのだとずっと考えていた言葉とは、ずいぶん違った。それしか言葉が出ないでいた。ずっとずっと会いたかった、涙を含んだ声でそう言う弟の、寒さで縮こまった体を抱きしめる。にいさん、にいさん、にいさん。どんどん弟の声色が崩れてゆく。ぶるぶると震える腕が、かすかにおびえながら、背中に回される。さみしかった、あなたがいないことが、あなたがおれを拒んだことが、つらかった、くるしかった。そう言ってプロイセンの肩に顔をうずめた。彼の涙で肩がしめってゆくのがわかる。ああ、ああ、ごめん、ごめんな、そう返すことしかできなかった。言及すれば、自分も彼とおなじように泣いてしまうとおもったからである。この日くらいはせめて、兄としての面目を保ちたかったのだ。この日だからこそ、兄弟という建前をかなぐり捨てて、抱き合って泣き、歓び、歌さえ歌っていいのかもいいのかもしれない。だが、プロイセンはそれをよしとしなかった。くだらないプライドである。それでもこの日は、この日だけは、せめてもの余裕で、兄として、弟を久しいなと受け止めてやりたかった。抱きしめる力が自然と強くなる。二十余年、毎日壁のむこうがわで、こうしてやりたいと思っていた、祈っていたのだ。
なあヴェスト、帰ったらさ、一緒に料理を作ろう。何時間かかったっていい。それから良い酒を、浴びるぐらい呑もう。同じベッドで寝よう。共に仕事をして、笑い合おう。何百年と先も、必ずまた、この日を共に歓び合おう。肩のほうで、こくんと頷く感覚がした。幾度も幾度も頷く感覚だった。ドイツが、顔を上げる。泣きはらしてまっかになった目元。固めた前髪も、もはやぐしゃぐしゃだった。ふ、とプロイセンが笑う。ひでー顔、ぐしゃぐしゃじゃねーか。兄さんだって、目に涙がたまってるぞ。うるせえ、目にゴミが入っただけだ。そうやって、笑い合った。どうか会わせてくれと、日ごと祈った男の顔が、目の前にある。プロイセンは思わず、そのひとのくちびるをなめた。ただいま、ヴェスト。また一緒に暮らそうな。かれが、こくんと頷く。…おかえり、おかえりなさい、兄さん。
…さん、兄さん!まどろみの中からプロイセンを引きあげたのは、その弟の声であった。なにぼさっとしてるんだ、そんなところでうとうとしている暇があったら手伝ってくれ、まったく…。ほわんと肉のにおい、上質なビールのにおいがたゆたっている。眼前でエプロン姿のまま仁王立ちしている男の瞳をじいっとみつめた。夢……夢か、うん、夢だよな。確かめるように幾度もつぶやいた。あんな夢を見たものだから、まだ頭がうまくまわらないでいる。まどろんでいたソファから重い腰を上げた。わりい、昔の夢を、見てた。まだ、いくぶんぼんやりとする。……好きだぜ、ヴェスト。ふと、言葉がついて出た。真面目な顔でそのひとの腕を引く。わっとバランスを崩した隙に、ついばむようにしてくちびるを重ねる。ほら、手伝ってやるよ。腹へっちまった。言いながら、キッチンへ向かう。状況を掴めずにぽかんとしていた男が、一呼吸間をおいて声にならない声を出した。な、な。口元をおさえて耳まで赤くしている男の姿にくっと笑う。この日くらいかっこよくたっていいだろ?けせせと高く笑い声をあげる。こ、の、ばか兄貴!後ろのほうで、反駁の声がする。……あなたはいつでもかっこいいくせに…。ちいさく、聞こえないようにと呟いたであろう言葉は、はっきりと、プロイセンの耳に届いていた。
I offer it on a day of the collapse!
1109、そして ( 20111127 / 普独 )