京浮短編集
煙
俺の部屋の隅に煙草盆がひとつ、ある。煙管はない。となれば刻みもない。煙草盆だけだ。
熱を出して三日、起きて寝室の換気をしていると、いいかげんな調子で橋を渡ってくる音が聞こえ、そう待たない間に京楽が入ってきた。窓に背を持たせていた俺と対角の、腰高屏風の脇に立ってひょっと肩を竦めてみせる。
「元気そうじゃないか」
「いつもの熱発だから。どうかしたのか?」
「いや」
大方、ウチの隊の連中が大袈裟に騒いだのを真に受けて、見舞いに来てくれたってとこか?長い付き合いなんだから、その辺りは分かりそうなものだけど。
京楽は屏風からこちら側へ入ってくると、布団の傍に遠慮なしに座った。そうして煙草入れから銀煙管を取り出すと、皿に莨を詰めながら周囲を見回す。
「お前は自分の限界ってのを知らないから困る」
「知ってるさ」
「言ってろ。熱出して意識飛んだんだってな」
全く、と苛立ちか呆れか分からないような溜め息を吐いて、見つけた件の煙草盆を引き寄せて莨を喫み始める。吐き出した薄白い煙が部屋の中に溶けていく。
現場から戻ってすぐ、隊舎の廊下で気を失ったのは事実だ。それに、少し喀血もした。そこまで知るはずはないと思うがこいつの場合は油断できない。
カッ、と灰吹きの縁を鳴らして玉を落とすとまたぷかぷかやり始めた。
「貰い物か」
「煙草屋の親父が初物だからってさ。味はいいんだけど俺には軽くてなぁ……って、なんで分かった」
「匂い。お前昔から同じのしか吸わないからな。貰い物くらいだ、違うのを吸う時は。…で、どれ、一口寄こせ」
「ばか言ってんじゃないよ、肺病持ちが」
「その肺病持ちの寝所で年中すぱすぱやってんのは誰だっての。いーからさ、寄こせ」
どっかと胡坐をかいて、やつの目の前に左手を突き出してやる。京楽は渋い顔をして黒い塊になった葉を捨て、新しい葉を詰め吸い付けてこちらに吸口を差し向けた。
「ふかすだけだぞ」
「だから、今更」
俺は京楽の言うことを聞かず、一度は軽く吸い二度目は深く肺に入れた。器官は濃度の高い異物に反応してたちまち痙攣を起こし、俺はひどく咳き込んだ。京楽は俺の手から煙管を取り上げると ばか、だから人の言うことを聞けというんだこのばか と咳が治まるまで背中を擦ってくれた。
「もうここで吸うのは止める。絶対止める」
「それ、もう聞き飽きた」
「今度こそ止める」
次に来たら、また同じことを繰り返すのは分かっている。違うのは、きっとその時の煙草は元の銘柄に戻っていて、俺はそれを所望しないということだ。何故なら、いつもの煙草の煙は、もう俺の肺の中に入っているからだ。今日は京楽の吸った新しいものを足しただけだ。
「へいへい、頑張ってください」
お前今ばかにしたろう。煙管をしまいながらこちらを睨む京楽に、俺はとびきりの笑顔をくれてやった。