還る場所
朝の麗らかな日差しの中、弟が唐突にのたまった台詞に思わず目を瞬かせる。
両手で洗濯カゴを掴み、呆れたように見下ろされて居心地が悪い。
先程起床したばかりだと言うのに、陽気な日差しに負けて半分眠りかけていた脳が徐々に覚醒を始める。
「は?お前何言ってんだ」
ぼんやりとした頭で晶馬をじとっと睨みつけるが、当の本人はけろっとした表情で真っ白に洗われたシーツを勢いよく広げていた。
ふんわりと漂う柔軟剤の香りに、暖かい光が追い打ちを掛ける。
晶馬の背中をぼんやりと眺め、手持無沙汰になった手を誤魔化すように頭を掻いた。
「だって、そうじゃないか」
晶馬が声だけで答える。
ぱん、と皺を伸ばす音が心地良い。
「兄貴は気紛れだから」
くるり、と回転させる身体に、はためく蒼と白。
開け放たれたままの扉から入り込む爽やかな風が、俺の赤をも揺らしていく。
「それで猫か」
「そう。女の子の所に入り浸って帰ってこない事もあれば、ふらりと帰って来てごろごろしてるし。さっきの寝転んでる姿なんて、まんま猫だった」
可愛くない猫だよ。
晶馬が嫌味を込めて笑う。
何故かそれが気に入らなくて、思わず剥れっ面を作って晶馬を睨む。
「うわぁ、兄貴その顔鏡で見てみなよ。すっごい不細工」
「…昨日の事根に持ってんのか」
「別に。兄貴の夜遊びは今に始まった事じゃないし、気にしてたらキリが無いよ。いい加減怒るのも疲れるしね」
晶馬は平静のまま、洗濯物をテキパキと日差しに預けていく。
その動作が慣れたもので、俺はこの三年間の重みをまざまざと実感させられた。
「悪かったって」
「だから怒ってないってば。それよりほら、どいてそこ、邪魔」
無駄話を続けている間に晶馬は洗濯物を干し終え、俺の身体を足で軽く蹴る。
よくある兄弟喧嘩の発端だ。ムキになった俺は小さく笑い腕を伸ばす。
反撃と言わんばかりにその足を取ると、呆気なく晶馬の身体はバランスを崩して倒れる。
「いった!何すんだよばかんば!」
盛大に尻餅をついた晶馬は、打ち付けた箇所を擦りながら眉間に皺を寄せていた。
俺はチャンスと言わんばかりに、座り込んだままの晶馬の膝に頭を置く。
女のそれよりは弾力が無い、寧ろ少し硬い膝は少しだけ痛かった。
だけど、確かな優しさを持つそれは、どの女のモノよりも凌いでいると思えた。
「ちょっ、何やってんだよ兄貴!」
「うるせぇ。大人しく膝枕になれ」
「やだよ!何で僕が…」
「猫が丸くなる場所っつったら、ばあちゃんの膝の上って決まってんだろうが」
「え、違うって。猫はこたつで…って待って。僕お婆ちゃんじゃないし!そもそもなれないし!」
なるならお爺ちゃんだよ、なんて見当ハズレな事を言って頬を膨らませている。
思わず声を上げて笑いそうになるのを何とか堪えた。
「細かい事気にすんなって」
「そう言う問題…あ、ちょっと冠葉、擽ったいってばっ」
少しの弾力に縋る様に顔を擦り付けると、晶馬が口元を緩ませ身体を小さく震わせた。
「かったい足だな。まぁ何とかギリギリ枕代わりになるか」
「何それ、酷くね!?」
もう、なんて呆れた声を出してはいるが、抵抗は一つも無い。
晶馬の良い所でもあり、悪い所でもある。
しかし今日だけは、晶馬のお人好しに甘えていたかった。
さぁ、と流れる暖かな風に目を細める。
晶馬の瞳もすっと細められ、同時に頭の上を滑らかな掌が何度も往復していく。
快い温度に、沈みかけていた眠気が再び顔を出して俺を襲う。
その時だった。晶馬の顔が少しだけ陰りを帯びたのは。
「気紛れでもいいから、帰ってきてよ」
このまま眠りにつけたなら、どれ程良かったか。
だけど確かに聞こえた小さな声に、ぎくりと身体を竦ませる。
風に攫われて半分しか耳に届かなかった晶馬の切なげな声。
だけど、俺にはそれが痛い程分かってしまい、耳を塞ぎたくなった。
一定の間隔で滑っていく掌が、慈しむように撫でる指が、己の中に眠る真っ黒に染まった箇所を浄化しようとする。
一度決めた悪意も、鬼と交わした契約も、全てを拭い去るような温度。
だけど戻れない、戻ってはいけない。
「わかった」
俺の帰る場所は、ここだけだ。
綺麗に嘘を着飾って、晶馬を傷付ける。
薄らと微笑みを作った晶馬から逃げるようにぎゅっと目を瞑った。
「約束だよ、冠葉」
石のように重い言葉は、俺を暗闇から無理矢理引き摺り出そうとする。
止めてくれ、もう温い感情は御免なんだ、だから捨てさせてくれ。
祈る様に目を瞑り、晶馬の掌に耐える。
この熱が簡単に捨て去る事が出来ないくらいには大切だった。
だけどそれももうお終い。長過ぎた幸せはもう要らないのだ。
「僕たちは何時までも家族だ」
言い聞かせるように呟かれた晶馬の声を肌に感じ、思考を断ち切る。
明日、俺たちはそれぞれの道を歩き出す。