【ピンドラSS】私の、名前【萃果】
王子様との楽しい湖畔のお茶会。隣に座っているのは柔らかな髪と銀縁眼鏡の多蕗さん。
辺りを飛んでいる鳥のことや、お互いの生活のこと、最近の世の中のことを当たり障りなく話している、平和な光景。
頭上の枝から、小鳥が微かな音を立てて湖へ飛んでいく。
それを何となく眺めていたら、多蕗さんが急に手を掴み、言うのだ。
「好きだ、桃果」
掴まれた手は確かに私の手のはずなのに、驚くほど小さく華奢になっている。着ていたはずのドレスが、いつのまにか桃の絵が目立つオーバーオールになっていた。小さな足を包む、ころんとまあるいピンクの靴。
多蕗さんが触る髪の色は、濃い茶色ではなく、あらゆる光を反射する複雑な色に。
私は誰?
問いは、柔らかな唇に塞がれて、閉じ込められた。
桃色、水色、黄色、黄緑。
淡く暖かい毛糸の色彩を前に、萃果は驚くほど心が穏やかだった。
以前もこの手芸店には来たことがある。多蕗に手製のマフラーを編もうと思って、隣の陽毬のようにあれこれ手に取っていたのだ。
前のめりに選んで、鼻息荒く毛糸を買い、でも結局編み物は上手くできなくてあげられなかったけど。
なんだかあの日々が遠い昔のように感じる。多蕗に恋をしようとしていた頃。桃果になろうとした日々。
どんなに魂を燃やして駆け巡っても、日記を失った私は桃果じゃない。
「萃果ちゃん、この色どうかな?」
陽毬が屈託なく微笑む。綺麗な表情だ。私のそれとは違う。
私は陽毬ちゃんみたいになれない。私は桃果にもなれない。
私は誰にもなれない?
こんなことばかり考えて、なんだか最近調子が悪いな。
「萃果ちゃん?大丈夫?このあと少し休憩しようね」
あれ、おかしいな、病院から(多分無許可で)抜け出してきた子に心配されてしまった。
私は上手く笑えていないんだろうか?
深海の部屋で、今夜も私は夢を見る。
オーバーオールを着た背の低い私は、木の陰から湖畔のお茶会を見つめている。
一人は多蕗王子、もう一人は、ゆりさん。
ゆりさんはいつも通り、ウエーブのかかった髪に華やかなドレスがとてもよく似合っている。
二人が並んでいると、本当に王子様とお姫様みたいで、とてもオーバーオールの子供が出ていく幕ではない。
私はどうしてこうなんだろう。
私はどうして誰かに必要とされなかったんだろう。
どうして、どうして一人で涙を堪えているんだろう。
「大丈夫?」
傍らから声があった。聞き覚えのある声だった。
見上げると、召使の制服を着た晶馬くんだった。いつものように困ったように眉尻を下げている。
「多蕗王子やゆり姫のようにはおもてなし出来ないけど、良ければ僕がお相手しますよ、小さなお姫様」
こっそり抜け出して来ているのか、ちらちらと二人を盗み見ながら、しゃがんで細かい細工の入ったティーカップを差し出してくれる。
「涙を拭いて。いつものように笑ってよ、萃果姫」
萃果。
私の名前。
桃果じゃない、私の。
気付けば私たちは制服姿で、新宿御苑のそばの珈琲店にいた。
「それで聞いてよーまた兄貴がさー」
目の前では晶馬がぶうたれて家族の愚痴を話し続けている。晶馬と話すのは、おんなの友達と話すように気軽だ。変に緊張したり、澄ましたりしなくていい。
「あはは、冠葉くんはやんちゃだねー」
「やんちゃじゃ済まないよー!とばっちり食うのはいつも僕なんだから、ほんともうやめてほしいよねー!」
文句を言いながら、お茶を注ぎ足し角砂糖を落とす。ぐるぐるとかき混ぜて一口飲むと、長い睫毛に窓からの光が反射してとても綺麗だった。
「どうしたの荻野目さん。口開いてるよ?」
まっすぐ私を見つめる瞳。彼の指す「荻野目さん」は桃果じゃなく私だ。
彼は最初から今まで、「私」しか見ていなかった。
私はもう、桃果にならなくてもいい。
家族にこだわる必要もない。
だってここが、私の居場所だから。
「なんでもないよ!」
今度はちゃんと、いつも通り笑えているはずだ。
作品名:【ピンドラSS】私の、名前【萃果】 作家名:幾田宴