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愛憎

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 間近で覗きこんだ弟の瞳は信じられないほど――ラグナの少ない語彙から無理矢理ひとつ選ぶとすれば、この世のものとは思えないほど、透明に輝いていた。翡翠のまなこは、割れた額から伝った赤がつるりと滲んでも瞬きひとつない。
 ジンの額を叩き割ったのは無論ラグナなのだが、春の野のような澄んだ緑に覆い被さる無粋な赤を惜しく思う。そっと息を詰めるとすぐ鼻先で弟が微笑んだ。少年の日に絵本を抱いて喜んでいたのと同じ顔をする。
「……どうして?」
 落胆の呟きに物欲しげな響きもふくませ、ジンは掌中のアークエネミーをいらった。微かな鍔鳴りは頭痛がするほど静まりかえった統制機構本部の空気を震わせ、ラグナの背筋をも強張らせる。
 赤黒く束になった金糸を邪魔そうに、ジンは浅く首を傾げた。にいさん、とラグナを呼ぶ。微笑んでいる。
「ねぇ兄さん、死にかけているのは僕だよ? どうしてそんな顔をするの?」
「……うるせーよ」
「どうしてそんなに震えているの? 泣きそうな顔をしているよ、兄さん」
「うるせーっつってんだろうが!」
 狂ったように笑いながら刃を向けてきていたジンが今更弟の顔をラグナへ見せるのが、そしてそのことにどうしようもなく戸惑ってしまう自分自身が、悔しくてならなかった。家族の絆など斬り捨てられた右腕とともに失って久しいというのに、どこから沸いてきたのかその情がラグナの動きを封じこめてしまう。
 ジンは淡く笑っている。この男の透明な瞳にラグナは惨めな容姿を晒しているらしいが、止まらない血で用をなさないはずのそれにどれほどの信憑性があるものか。ラグナは己の醜態を信じない。
「ああ……残念だな」
 激昂するラグナをよそに、ジンは切なげに嘆息する。砕けた腕ごと氷で固めてまで手放さずにいるユキアネサが、所有者の嘆きに反応してか澄んだ音で鳴いた。
「こんなに愉しい時間が終わってしまうなんて、ね」
「こっちは面白くもなんともねぇよ」
 目の前で、ひび割れた唇が少女のような笑みを浮かべる。
「そうなの? ……随分引き延ばしてくれたから、てっきり兄さんも愉しんでると思ってた」
「……ジン」
「なんだい、兄さん」
 血によって狂気の洗い流された翡翠が美しかった。ジンやサヤと手を取り合って生きていたつましくも幸福な過去がその色に凝縮されている。
 だからそう思ってしまった時点で、きっとラグナにジンは殺せなかった。噛みしめた奥歯から血の味が滲む。
 ジンに対する憎悪は消えない。この感情はもはや殺意にまで腐敗しきってラグナの骨髄にまで染みついており、臓腑を灼く怒りとともに体内でうねっているが、それでも彼の首を叩き斬ることは絶対に不可能だろう。ジンがラグナの弟であるかぎり、この可能性を乗せた天秤は揺らがない。
 想像のなかでなら自死を選ぶほうが今は容易く思えるほどだ。きっと目的がジンのみだったならラグナは刃を抱いて地に伏すだろう。
「……兄さん?」
 緩慢に傾げる白い顎から滴る赤が床に砕けている。傷口側の瞳は流血で汚れ、ただ開けているだけでも痛むだろうにジンはラグナの沈黙のみを気にかける。
 今にも噴き出しかねない自己嫌悪や殺意の混じりあう灼熱の感情を腹に留めたまま、ラグナはジンから一歩退いた。片目を赤く染めたジンが不審そうに眉を寄せたそこから目を逸らす。
「てめぇはここでおとなしくしてろ。……カタがついたら訊きてーこともあるしな」
「……殺さないの?」
「うるせーよ馬鹿」
 ジンをどうにかするより先に消してしまわなければならないものがある。何よりも自分自身へ強くそう言い聞かせ身を翻したラグナの背に、ジンのか細い溜め息が届いた。すすり泣きのような音のあと、ジンは静かに笑ったようだ。
「……やっぱり……兄さんは、兄さんなんだね」
「あ?」
 肩越しに振り返る。
 まずジンの喜笑がぞっとするほど近くにあることに驚き、驚いたせいで反応が遅れた。赤と翡翠の、まるで己のそれとよく似た双眸の表面には間抜けな呆け面で硬直するラグナ自身が映っている。
「優しかった兄さん。……馬鹿な兄さん」
 男女の口づけの距離まで顔を寄せ、ジンは熟しきって腐敗する果実の甘さでラグナへ囁いた。
「残念でたまらないよ。……もっともっと愉しんでから殺してあげたかったのに、兄さんったら僕を置いてどこかへ行こうとするんだもの」
 濁った赤と透明に澄んだ翡翠を笑ませるジンが、重そうに顔の横で刀を構える。柄ごと握り手を凍りつかせた氷は、たとえ所有者の命が尽きたとしても溶けることはない。
 口角を吊り上げたジンに対し、ラグナは幼児のようにただ立ち尽くす。
「だめだよ兄さん。もうどこにも行かせない、僕がちゃんと……もう一回殺してあげるから!」
 視界を塞いで迫る刃のきらめきを、場違いなほど美しいと思った。
作品名:愛憎 作家名:yama