天使じゃない
壁に叩きつけられた背中がじんわりと熱をもち、痛みに顔をしかめたところで、帝人は買い物、終わったあとでよかったなあと、頭の隅でそんな平和なことをぼんやりと思った。
恐怖は彼の内側に、確かに存在してはいたのだけれども、こうもベタな、まるでマンガにでもあるようなやり方のかつ上げをされるとは予想もしておらず、彼の口から出てくるのは乾いた苦笑だった。「だからぁ、さっさと金出せよ?」、と、舌を器用に巻きながら、不良グループの中心にいた人物が声を上げる。
「いや、あの、ですから、…本当にもってないんです…」、と帝人は消え入りそうな声でそう言うのだが、帝人を取り囲む面々は「あぁ?」、と声をひきつりあげて、帝人の言葉をかき消した。
だいたい、制服着た学生に、お金せびるってどうなの…。帝人は喉まで出かかった言葉を飲み込んで、「今、あの、買い物したばっかりで、本当に財布の中にお金ないんです…」、本当なんです、とうつむきながら訴えた。話を聞いてくれないもどかしさと、先ほどうちつけた背中の痛みが、彼の目尻に自然と涙を浮かべる。
ただ、後ろは壁で、前を取り囲まれていて、逃げ場が全くなくても、帝人はなぜか不思議と、怖くはなかった。ベタすぎて恐がれなかったと言えばいいのか。「あの、…」。先ほどよりは少しだけ声を張り上げて帝人はそういった。これは嘘だけども、と咽喉の奥で付け加える。「用事があるので帰らせてください」。帝人は震える声で自分を取り囲む不良にそう言った。
不良はそういった帝人に、いらだちながら、「じゃあとっとと金おいてけ!」、と、動かない帝人の胸ぐらをつかんだ。ああシャツが皺になってしまう。帝人はぼんやりとそんなことを思った。胸倉をつかまれたまま、何度か揺らされたせいで、壁に勢いよく頭を打ちつけられるまでは。
頭蓋骨にごん、という鈍い音が何十にも木霊して、帝人はあ、これはそろそろやばいんじゃないかな?と、冷静に、ただそう思った。ぐわんぐわんと、視界がゆれる。あの、ぐるぐると回った後に足が地につかなくなるような、何処が前で後ろで上か下かわからなくなるような感覚といえばいいのか。意識が飛びそうになる。
打ち所が悪かったらやばいなあ、と、後から彼の頭に走る、後頭部の痛みが遠のいて、じくじくと熱を持ち始めていくのを、彼は意識の外でぼんやりと感じていた。ふっと、足に力が入らなくなる。
「あ?何やってんだ?」、という不思議そうな声だけが彼の頭に響いていた。
浮いているような意識の中で、帝人は天使のようなものをみた。
それは頼んでもいないのに、帝人を取り囲んでいた不良の面々を、風のように吹き飛ばし、歩くのと同じような動作で全員をコンクリートに沈めたのだった。
天使は白と黒のコントラストが映える妙な格好をしていて、片手に煙草を蒸かしているようだった。あれ、やっぱり打ち所悪かったかなあ、なんて帝人は思う。お迎えってこんなにはっきり見えるものなの、と。
頭を持ち上げて、彼をしっかりと見ようとしたが、帝人の体は言うことを聞かず、彼はただずるずる壁伝いにしゃがみこんだ。何故だかもう、足に力が入らなかった。「あ?」、としゃがみこんだ帝人に気付いた天使が、やっとそれで帝人を振り向いた。そして天使は意識の朦朧とした帝人の前にしゃがみ込む。そこで、帝人は、やっと、その天使の、見たことのある顔に心底ほっとした。あ。天使じゃないや。これ静雄さん、と。
帝人は完全に意識が飛ぶ前に、消え入りそうな声で「ありがとう、ございます…」、と彼に告げる。静雄は、あ、これどっかで見たことあるぞ、たしか竜ヶ峰だっけか、と思い出したところで、意識が飛んでしまった彼を、どうしようかと、ためいきをひとつ、煙草の煙と一緒に吐き出した。
「おい」、と呼びかけてみるが返事がない。ぐったりしているな、と不思議に思って、彼の頭にそっと手をかけ、ぬるりとした感触に眉をひそめる。自分の手についたそれをみるなり、「あー、こりゃやべえな」、と彼は携帯を取り出して、顔なじみにメールを打った。彼女がバイクの戦慄きと共にここへくるよりも、自分が担いで行ったほうが早いだろうか。
20100317 / 天使じゃない